辰巳芸者(たつみげいしゃ)とは、江戸時代を中心に、江戸の深川(後の東京都江東区)で活躍した芸者のこと。深川八幡宮・永代寺の門前町は岡場所であり、遊女(私娼)と並んで「意気」と「張り」を看板にした芸者が評判となった。深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれた。舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「いき」の象徴とたたえられた。深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されている。薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また芸名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもある。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多い。天保の頃には261人の芸者(男芸者含む)、472人の遊女がおり、江戸最大の岡場所であった。天保の改革で岡場所は取り潰しとなり(1842年)、深川の芸妓も柳橋等へ住み替えとなった。その後、次第に復活し、全盛期ほどではないものの、1928年(昭和3年)時点では149人の芸者がおり、かつての「辰巳芸者」の気風を残す芸妓もいたという。江戸のいき(意気)を体現した辰巳芸者は、江戸を描写した作品にしばしば登場する。
出典:wikipedia
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