増山城(ますやまじょう)は、富山県砺波市(越中国砺波郡・射水郡・婦負郡の三郡境付近)にあった日本の城(山城)。旧名、和田城。国の史跡。和田川右岸の山上に築かれた山城であり、松倉城(魚津市)、守山城(高岡市)と並び越中三大山城と称された。南北朝時代の貞治2年(1363年)、『二宮円阿軍忠状』に「和田城」として史料に見えており、はじめ桃井直常方の勢力が守備していたが、後に幕府軍により攻略されたとみられる。戦国時代には神保氏の重要拠点として知られ、永禄3年(1560年)に神保長職が上杉謙信により富山城を攻略された後、増山城に立て籠もった。この時の謙信書状に"「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」"とあるように、要害堅固な城であった。永禄5年(1565年)に長職が上杉氏に降伏した後は、増山城が神保氏の本拠地となるが、神保家の反上杉派が一向一揆と結んで抵抗したため、天正4年(1576年)、上杉謙信により攻略された。その後、天正9年(1581年)に織田軍の攻撃により落城し、佐々成政が重臣・佐々平左衛門や佐々源六(勝之)、直属の馬廻り衆を入れて守っていた。前田氏治下には中川光重、山崎長鏡が城代を務めたが、元和の一国一城令により廃城となったとみられる。増山城郭群を構成する城郭。城郭群でもっとも高所にあり、主郭には三角点(標高133.1m)が設置されている。字「高津保理山」。城名は、亀山院の代官がいたことによるという伝承が残っている。江戸時代の史料「越中砺波射水両御郡古城等覚書」には、増山城の城名由来を「"亀山之城より増タルヨシニテ増山と名付ル"」との記録があり、亀山城が増山城より古い城であると伝えている。しかし、近年の発掘調査では、必ずしも増山城を遡る出土遺物はなく、史料の再検証が必要となっている。「越登賀三州志」には増山城と亀山城を「同蹟也」と記しており、誤りとみる研究者がいるが、広義の増山城という概念で捉えると必ずしも事実誤認とはいえない。ちなみに「越中志徴」では、「考ふるに、和田城と云は、今云増山城なるべし」と推察している。増山城郭群を構成する城郭。城郭群中でもっとも北に位置する。城の中心は、字「孫次山」、西側斜面「大平等」、東側の谷「湶谷」で構成される。最高所は標高127.8mを測り、南に隣接する亀山城と比べ、見下ろされる位置関係にある。主として東西ふたつの曲輪群で構成され、東側斜面には二本の長大な竪堀が造成され、城を強固に守っている。和田川をはさんで城の対岸に城下町の遺構が残っており、寺土居町、野金島などの小地名のほか、下町、鉄砲町、大持、境角、そうけ屋敷、寺の坂、鉢巻などの地名や寺院の塚が残っている。遺跡名は「増山遺跡」だが、通称「城下町」と呼称される。下町は、昭和42年に建設された和田川ダムによってできた増山湖に水没している。『栴檀野誌』「鉄砲町」の項には、「往古増山市街町名ノ一ニシテ伝ヘ曰フ、鉄砲左ェ門ト称スルモノ増山城主神保氏ノ請ニ応シ鎌倉ヨリ来リ盛ニ鉄砲ヲ造リタルヲ以テ町名トナレリト、其他下町寺土居町等ノ遺名アリ、"古増山市街ハ八十八町"ト数ヘシガ元禄年中土地開墾施行ニ際シ大ニ廃置ヲ行ヒシ為メ僅ニ前記ノ名称ヲ遺スノミ」との記述がある。国の史跡指定を記念し、城跡を核とした地域活性化を目指して行われているイベント。2010年10月設立。会員数37名。増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心とした城好きのグループ。国の史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」を行うなど活動を展開している。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参画している。2011年4月から増山城跡の有料ガイドを行っている。コースは次の2コースを設定している。活動実績 増山城探訪春の陣(2011年4月29日)
出典:wikipedia
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