内藤 大助(ないとう だいすけ、1974年8月30日 - )は、日本の元プロボクサー、タレント、ボクシング解説者。北海道虻田郡豊浦町出身。元WBC世界フライ級王者(第36代)。元日本フライ級王者(第49代)、元OPBF東洋太平洋フライ級王者(第35代)。宮田ジム所属。マネジメント先はトラロックエンターテインメント。血液型O型。母親は、大助を身ごもっている時に夫と離婚。母親はアルバイトで大助と4歳上の長男を養い、後に民宿を始める。母曰く「安く泊まれるのが売りの小さな民宿」だったため生活は楽ではなかったが、マラソン大会や運動会の徒競走では必ず1位になるなど運動神経抜群で、クラスでは人気者だった。中学では卓球部に所属。しかし、中学2年になるといじめの標的にされるようになる。クラス替えがきっかけともされたが、はっきりとした原因は本人にも分からないという。生活が苦しかったため、兄のお下がりの制服やスキーウェアなどを着ていけば「ボンビー(貧乏)」というあだ名で馬鹿にされたり、給食のおかずや貴重品を取り上げられたり、教師に見つからないよう人目につかない場所で暴行も受けた。内藤は胃潰瘍を患うまでに追い詰められるも、教師からはいじめには気付いてもらえず、気の強い母親への相談も諦め、1人でいじめに耐える中学生活を送った。進学先の北海道豊浦高等学校にいじめ加害者らが進学しなかったことからようやくいじめから解放され、新しい仲間との出会いを通じて本来の明るさを取り戻す。同校ではハンドボール部に所属し、3年時には同校初の全道大会出場に貢献した。卒業後には洞爺湖そばにあるホテルに調理師として就職が内定していたが、春休みの研修中に些細な理由から上司と口論に発展、内定を取り消されてしまい、就職に失敗する。高卒後は定職にも就かずだらだらと日々を過ごしていたが、母親に叱咤され上京。母は予め、生別した実父が経営する工務店に「大助を働かせてやってほしい」と話をつけていた。上京から1年ほど経ったある日、書店で目にしたボクシング雑誌に刺激を受け、下宿先の近くにあった宮田ボクシングジムに入門する。内藤はボクシングを始めた動機について、「地元に帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。でも、ジムに通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても、『ジムに行っている』と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思った」と振り返っている。しかし、格闘技が好きではなかった母から、「あんな野蛮なスポーツはダメだ」と叱られ、勘当を言い渡される。1996年10月11日、プロデビュー戦を1RKO勝ちで飾ると、1998年12月19日、全日本フライ級新人王決定戦で福山登(大阪帝拳)に1RKO勝ちし、9勝1引き分けの戦績で新人王を獲得。2001年7月16日、坂田健史(協栄)の持つ日本フライ級王座に挑戦するも、引き分けで王座獲得ならず"(大串事件も合わせて参照)"。2002年4月19日、敵地タイでポンサックレック・シンワンチャー(タイ)の持つWBC世界フライ級王座に挑戦し、世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫する"(#第1戦参照)"。しかし、復帰戦でKO勝ちすると、その後も菊井徹平(花形)を下すなど順調に勝ち進みランキングを上昇させる。2004年6月6日、日本フライ級王者の中野博(畑中)に挑戦。内藤は中野から2度のダウンを奪うなど一方的に攻め続け、6Rに偶然のバッティングによる負傷判定勝ちを収め、日本王座を獲得。同年10月11日、小嶋武幸(横浜さくら)を相手に初防衛戦を行い、日本タイトルマッチ史上最短となる1R24秒KO勝ちを収めた。2005年10月10日、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに再挑戦するも、7R負傷判定で敗れる"(#第2戦参照)"。2006年6月27日、OPBF東洋太平洋フライ級王者小松則幸(エディタウンゼント)と、史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを行い、小松を6RTKOで破り、日本・東洋太平洋王座の2冠を達成する。同年12月10日には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い、判定で初防衛。2007年、自身の負傷および日本・東洋王座の防衛戦の兼用が困難になったことなどを理由に両王座を返上。同年、ポンサクレックとの3度目の世界タイトル戦が決定、地上波テレビ局での放映も決定していたが、直前になり局が放送を取り止めてしまいスポンサー集めが難航、およそ4000万円の経費を用意できず開催が危ぶまれる。内藤は会見で、「ファイトマネーはゼロでいい。リングに上げて下さい」と懇願した。すると、ディスカウントストア大手のドン・キホーテがスポンサーに名乗りを上げ、テレビ中継に関しても、東京都の独立UHF局であるTOKYO MXでの生中継が決定。事態は好転し、開催へと漕ぎ着けた。2007年7月18日、WBC世界フライ級王座3度目の挑戦で、王者ポンサクレック・ウォンジョンカムに12R判定勝ちし、32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなる"(#第3戦参照)"。内藤は同年1月から白井・具志堅スポーツジムの野木丈司トレーナーに師事し、綿密な作戦とスタミナの強化に努めてきた。2007年10月11日、初防衛戦を行い、亀田三兄弟の次男・亀田大毅(当時:協栄)を相手に試合内容で圧倒、ほぼフルマークの3-0の判定で勝利した"(#次男・大毅との初防衛戦参照)"。内藤はこの勝利をきっかけに国民的な人気者となり、以降の試合は全てTBSテレビが中継することとなる。また、テレビタレントとしての活動も開始した。2008年3月8日に両国国技館で、前王者ポンサクレック・ウォンジョンカムと2度目の防衛戦。試合は12R判定でジャッジは内藤勝利1、ポンサクレック勝利1、ドロー1で引き分けとなったため、規定により2度目のタイトル防衛。ポンサクレックとはこれで4度目の対決となった"(第4戦参照)"。2008年7月30日に国立代々木競技場第一体育館で、当時の日本王者清水智信(金子)と3度目の防衛戦。9Rまで清水のアウトボクシングに苦戦しポイントリードを許したが、10Rにカウンターを起点にしたラッシュでダウンを奪う。立ち上った清水に更に畳み掛けて2度目のダウンを奪い、逆転KO勝ちで世界王座3度目の防衛を果たした。なお、この日の興行ではダブルタイトルマッチとして当時のWBA同級王者・坂田健史の防衛戦も行われ、対立する同階級日本人世界王者の競演となった。2008年12月23日に両国国技館で、元東洋太平洋ライトフライ級王者山口真吾(渡嘉敷)と対戦。初回から激しい打撃戦となるが、パンチの的確性で勝る内藤が序盤から主導権を握る。王者有利の展開で向かえた11R、ついに山口からダウンを奪うと、立ち上がってきたところに連打を叩き込み、レフェリーストップを呼び込んで1分11秒でTKO勝ち。世界王座4度目の防衛を果たした。2009年5月26日、当時WBC世界フライ級10位の熊朝忠(中国)を相手に5度目の防衛戦。当初は中国・上海での対戦予定であったが、現地のイベント代行業者の不手際によって、直前になり現地での開催を断念。急遽、東京のディファ有明において、前座試合無しのワンマッチ興行、試合チケットは全て当日会場で発売という異例の形で開催された。試合は150cmの熊に再三懐に潜り込まれ、その都度バッティングを受けるなどしてペースを掴めず、終始苦戦を強いられた。5Rに偶然のバッティングで右瞼をカット、6Rにはダウン、更に11Rには口内をカットして出血し、熊の猛攻に防戦一方となった場面もあった。しかし、内藤はパンチを的確に当ててポイントを稼ぎ、全体的には優位に試合を進め、3-0の判定勝ちで5度目の王座防衛に成功した。2008年11月に開催されたWBC総会では、1位ポノムランクレック・クラティンデーンジムの他、同年5月に行われた挑戦者決定戦に勝利した2位フリオ・セサール・ミランダにも指名挑戦権を認めるとされていたが、ミランダの指名挑戦権は2009年4月に前王者ポンサクレックと暫定王座決定戦で対戦することが決まった時点で失効。この決定戦ではポンサクレックが暫定王座を獲得した。WBCよりポンサクレックとの王座統一戦を行うことが義務付けられていたが、前述の熊戦の負傷の影響で延期が認められた。それを受け、ポンサクレックは8月28日に母国で升田貴久(三迫)を相手に初防衛戦を行い、6回TKO勝ちで防衛成功。一方の内藤も統一戦の前に防衛戦を1試合行うことを認められ、11月29日、兼ねてより因縁深かった元WBA世界ライトフライ級王者亀田興毅と対戦。試合は2Rに興毅の左ストレートが内藤の鼻を捉え、このパンチ以降鼻からの断続的な出血を強いられることとなる。その後アウトボクシングをする興毅を内藤が追い続ける展開となったが、興毅を捉えきれず0-3の判定で敗れて王座から陥落した"(#興毅との対戦〜王座陥落へ参照)"。家族からは引退を勧める声もあり、進退に注目が集まっていたが、亀田興毅戦からちょうど2か月後の2010年1月29日、所属する宮田ジムで記者会見を行い、「打倒亀田」を掲げ現役続行を表明した。同年5月9日、後楽園ホールで再起戦。リエンペット・ソー・ウィラポン(タイ)とノンタイトル10回戦を行い、5RKO勝ちしたものの、これ以降1年以上試合を行わなかった。元世界王者であるため、JBCの規定でライセンスが失効する37歳を過ぎても再交付の申請は可能だったが、手続きを行っていないことが明らかとなりライセンスを失った状態であった。2011年11月12日放送のフジテレビ系番組『ジャンクSPORTS』出演中に現役引退を表明。後日正式に引退会見を開いた。12月31日に大阪府立体育会館で行われた井岡一翔のタイトルマッチの前座で引退セレモニー、年明けて2012年1月12日にかつての勤務先である長谷工コーポレーションで引退パーティーを開きエキシビションを披露した。2012年6月よりフジテレビNEXTの『ダイヤモンドグローブ』に解説者として加わることが発表された。また、同月20日に行われ、TBSが中継した井岡一翔VS八重樫東のWBC・WBAミニマム級王座統一戦でも解説者として出演し、それ以降も同局で解説を務めている。フジテレビが地上波ゴールデンタイムで放送する『EXCITING TIME』には歴代世界王者のひとりとしてゲスト出演。なお、現役時代にもテレビ東京の中継にゲスト解説として出演したことがある。また、フジテレビ系の昼ドラ『モメる門には福きたる』で本格的に俳優デビューも果たした。2013年7月には、北海道札幌市白石区に内藤がプロデュースするラーメン店「麺屋べんべ」が開業。入場曲は、C-C-Bが1985年にリリースした『Romanticが止まらない』。異名は、古くから用いられていた「北の剛拳」の他に、自身が持つ世界フライ級タイトル戦の史上最短KO負け、並びに日本タイトル戦の史上最短KO勝ちの記録に由来する「最短男」、2007年10月に対戦が決定していた亀田大毅と試合前から繰り広げていた舌戦の中で発した「国民の期待を背負うつもりで頑張りたい」という言葉に由来する「国民の期待」、元いじめられっ子がボクシングを始め、全日本新人王を経て日本王者になるという経歴が、森川ジョージ作の漫画『はじめの一歩』の主人公・幕之内一歩の設定と似通っていることに由来する「リアルはじめの一歩」などがある。中でも「最短男」に関しては、試合時に着用するボクサートランクスにも刺繍されており、内藤自身も代名詞にしていた。「リアルはじめの一歩」については、内藤自身も漫画の大ファンで、連載中の週刊少年マガジン誌上において何度か取材や作者との対談に応じており、同作品への熱い思いも語っている。また、アニメ『はじめの一歩』の第2期のCMに出演しており、劇中の千堂戦の再現として一歩に扮しデンプシーロールを披露している。なお、現在の内藤のサインは森川が考案した。リーチは172cmで、フライ級では長い部類に入る。同級屈指のハードパンチャーでもあり、生涯KO率は7割近くに達した。ボクシングスタイルは巷ではよく変則的と称され、常に上体を大きく動かしながらパンチを繰り出し、反動を活かして追撃や回避、あるいはその両方を素早く行う。また、コンビネーションのリズムの変化や豊富なフェイントなども、対戦相手を困惑させる要因となっている。中でもパーリングやウィービング、あるいはスリッピングなどのパンチから逃げずにかわし即反撃に繋げる技術に秀でており、試合では相手のパンチに即座に反応してパーリングしつつ、ほぼ同時に反撃のパンチを入れるシーンを頻繁に見ることができる。タイが誇る名ボクサー、ポンサクレック・ウォンジョンカムとは実に4度に亘り対戦をしている。2002年4月19日、無敗で世界初挑戦。敵地タイに渡り、ポンサックレックの持つWBC世界フライ級王座に挑む(ポンサクレックは5度目の防衛戦)。敵地ゆえに判定決着では負けると判断した内藤は、初回から積極的に仕掛けるが、開始20秒付近で内藤が右アッパーを出した矢先、ポンサクレックが左フックを被せた。この結果、強烈なカウンターとなり内藤はリング上で大の字になりながら失神。世界フライ級タイトルマッチ史上最短となる34秒でのKO負けとなってしまった。この敗戦で内藤は周囲からの厳しい批判と中傷に晒され、「日本の恥」とまで言われた。2005年10月10日、ポンサクレックに再挑戦。初対戦時以降、ポンサクレックはさらに防衛を重ね、この試合が12度目の防衛戦となる。一方の内藤は前年6月6日に日本フライ級王座を獲得。初防衛戦では日本タイトル戦史上最短となる24秒でのKO勝ちを収め、2005年4月には2度目の防衛にも成功し、勢いに乗っていた。初回は内藤が前戦と同様にポンサクレックに対して積極的に攻撃を仕掛けた。右ストレートを好打し、ジャッジ三者とも内藤を支持(10-9)。しかし、続く2R、偶然のバッティングで内藤が大量の出血。これを境に内藤はみるみる動きが落ちていった。この結果、ポンサクレックの攻勢が目立ち、7Rに試合がストップ。負傷判定で内藤の世界再挑戦は失敗に終わる。2007年7月18日、三たびポンサクレックに挑戦。ポンサクレックの王座防衛回数はミゲル・カント(メキシコ)の「14」を上回るフライ級史上最多の「17」にまで伸びていた。一方の内藤は、前年6月27日に小松則幸との日本・東洋太平洋フライ級ダブルタイトル戦に勝利。日本王座4度目の防衛を果たすと同時に東洋太平洋王座獲得を果たし、12月には東洋太平洋王座初防衛に成功していたが、内藤は引退を懸けてこの試合に臨んだという。第1戦・第2戦の反省を踏まえ、内藤は序盤から距離をとり、長いリーチと変則的なアウトボクシングで右ストレートと左フックで有効打を重ねていった。対して長期政権を築いていたポンサクレックも要所でコンビネーションブローを決め、内藤を追いつめた。内藤は9Rに疲労とダメージによりストップ寸前(防戦一方)に陥ったが、そのラウンド内に逆襲に転じポンサクレックを劣勢に立たせる底力も見せている。試合は判定に縺れ込んだ結果、3・3・2差の3-0判定で内藤の勝利。内藤は32歳10か月にして悲願の世界チャンピオンとなった。判定結果を聞いた内藤は、自分の右の頬をつねったり顔を叩くなどして「夢ではない」ことを確かめる素振りを見せていた。この試合は2007年度の年間最高試合に選出されている。亀田大毅との初防衛戦を制した内藤は、WBCの規定により、2008年3月8日に前王者ポンサクレックと2度目の防衛戦を行った。試合は、前回対戦とは体の切れが違うポンサクレック、そして、さらに進化を遂げた内藤の、ハイレベルな技術戦となった。序盤から中盤に掛けては中々パンチが当たらない展開だったが、中盤以降にお互いのパンチが当たり出しヒートアップ。そして一進一退のままお互い最終ラウンドまで足が止まらないタフでアグレッシブな試合となった。判定決着となり、結果は1-1の三者三様で引き分け。内藤が2度目の防衛に成功した。事の発端は2005年1月、そのビッグマウスと派手なパフォーマンスで良くも悪くも当時のボクシング界の話題をさらっていた亀田三兄弟の長男・興毅が、週刊誌のインタビューの中で内藤を「弱い」と評し、これを受けた内藤が興毅に対戦を呼び掛けたことに始まる。しかし亀田陣営は、「誰やそれ? 興味無いわ」「6回戦レベル」などと歯牙にも掛けない態度を貫いていた。内藤も負けじと、お笑い芸人・波田陽区の持ちネタ「ギター侍」に扮し、「結局逃げられて…残念! 亀田君、たまには日本人とやろうよ…斬り!!」というキャッチコピーを載せたポスターを作製するなどして亀田陣営を挑発した。内藤はポンサクレックへの3度目の挑戦を前に「世界王者になれたら亀田を挑戦者に指名する」と宣言し、有言実行を果たした。試合後内藤は、「これで立場が逆になった。チャンピオンになったのだから、どっしりと構えますよ。あっちが(戦いたいと)言ってくるまで待つ」とコメントし、これを受け興毅も「いつでもやってやる」と挑戦者に名乗りを上げたが、初防衛戦の相手は興毅ではなく次男の大毅(当時WBCフライ級14位)に決定した。この試合は契約前から亀田兄弟の所属する協栄ジムがプロモートすることが決まっており、協栄側が大毅に世界王座獲得の日本人最年少記録を懸けさせたいと目論んでいたことから、王者・内藤陣営に厳しい交渉期限を設けていた。そのため、会長の宮田博行はポンサクレック陣営の持つオプションの買い取り交渉を1日で決めるために奔走した。両者はここでも舌戦を繰り広げ、亀田陣営が内藤をゴキブリ呼ばわりして挑発。対して内藤は「前に自分をゴキブリ呼ばわりしたけど、ゴキブリはしぶといよ。地球が滅亡しても生き残るんだからね。ゴキブリが1番強いことを証明しますよ」「亀田兄弟は何で日本人と戦わないのかと、みんなが思っている。ここで僕と戦わないと亀田の人気は下がるんじゃないの?」などと反撃。すると大毅も「(取材記者から対策を聞かれ)ゴキブリに分析もクソもあるか。ゴキブリホイホイや」「あいつ昔いじめられとったんやろ? 俺がリングでいじめたるよ。俺はいじめっ子や!」などと舌戦を繰り広げた。当の試合は、序盤からガードを固めて突進する単調な試合運びだった大毅に対し、内藤がガードの上から有効打を浴びせるなど老獪な技術で最終ラウンドまで圧倒し、判定3-0で圧勝、初防衛を果たした。内藤は勝利者インタビューで「思った以上にやりにくかった。ただ、ポンサクレックより全然弱かったです」「亀田に初黒星をつけて国民の期待に少しは応えられたと思います」とコメントし、観客から喝采を浴びた。その一方、大毅はこの試合で序盤からサミングやローブローを出し、試合中のオープンスコアリングシステムで大毅不利が伝えられると、12Rではグローブの上からサミングを出し更に内藤を抱えて投げ飛ばすなど様々な反則行為を行った。これらを陣営の兄・興毅と父・史郎が指示していた事実も後に明らかになり、日本中からの批判に晒された(皮肉にも反則指示の一因となったオープンスコアリングシステムは興毅vsファン・ランダエタの判定が契機の一つとなって導入されたものであった)。内藤もこの反則について試合後の会見において、「(腫れ上がった両眼周辺を指して)これは全部サミングです。試合中はずっと目ばかり狙ってきた」と怒りを露わにし、「ボクシングは喧嘩ではなくスポーツ。あっちが反省しないのなら、もう亀田兄弟とはやらない」とまで宣言した。しかし、10月17日に亀田父子が会見で謝罪したのを受け、「ああいう態度の亀田父子を見るのは初めて。僕はもう終わったことだからと割り切っている。いがみ合って終わりになったので『お疲れさま』と讃え合いたい。」と述べ、和解に前向きな姿勢を見せた。大毅は会見の翌日に内藤宅を訪問し直接謝罪、史郎も電話にて謝罪をしたとのことで、「気持ちは伝わりました。この問題はこれで本当に終わりです。」とコメントし、遺恨は終息に向かった。翌2008年7月30日に行われた3度目の防衛戦終了直後、内藤が勝利者インタビューを受ける中、突如長男・興毅がリングに上がり「次に試合をしよう」などと持ちかけるパフォーマンスを行う。興毅のこの行動に対し観客席からは歓声混じりの野次も飛び、試合を中継したTBSには視聴者からの抗議が寄せられたが、TBS側は「ハプニングで、設定しておいた訳ではない」と釈明している。この出来事から更に年を経た2009年11月29日、興毅とWBCフライ級王座5度目の防衛戦を行う。前述の対戦呼び掛けから実に5年近い歳月を経て実現した試合であった。結果は、序盤に興毅のカウンターで鼻を骨折しその後アウトボクシングに徹した興毅の作戦が功を奏し、0-3の判定で敗れ王座防衛に失敗した。敗戦後は引退も匂わせる発言もしていた内藤だったが、王座陥落から2か月後の2010年1月29日、宮田ジムで記者会見を行い、興毅との再戦を目指し現役続行を表明したものの、当の興毅は3階級制覇を目指していたこともあってか、「俺の中では終わったことだし、正直興味が無い」と再戦には消極的であった。しかし、興行権は当時内藤側が保持しており、興毅が初防衛戦となる指名試合を制した場合には再戦が可能だったものの、興毅がポンサクレックに敗れ初防衛に失敗、更に興毅がタイトル奪還を目指すことなく階級をバンタム級へ上げたことで対戦の可能性がほぼ無くなったことが引退を決める要因の1つとなった。内藤曰く、母親の教育方針は厳しく、「母親から一度も褒められたことがない」と話しており、当の母も「褒めて育てるのは趣味じゃない」と語っている。内藤が日本チャンピオンになった時も「世界戦を制して初めて褒める価値がある、日本王者になったくらいで偉そうにするな」と言われ、逆に怒られたという。一方で「向こう(大助)が勝手に(厳しいと)言っているだけ」ともインタビューにて答えている。内藤はそんな母の厳しさに恐れをなし、中学時代にいじめられていることを相談出来ずにいたが、いじめについては、「知っていれば黙っていなかった。息子に申し訳ない気持ちがある」と自責の念があることを明らかにしている。地元で開かれた全日本王者の祝勝会で当時のいじめっ子と再会した際、全日本王者になっても当時のトラウマから少し怯えながら接していたところ、当の本人はいじめていたという自覚がなく「誰にいじめられていたんだ?」と聞かれてしまった。内心殴ってやろうという気持ちになったが「お前にだよ」と言い返すと、いじめっ子はショックを受けた様子を見せ、その姿を見た時にトラウマが全て消えたという。夫人は2歳年上で、2000年に結婚、2人の男児をもうけている。夫人の両親は都内で惣菜店を営んでおり、ボクシングだけでは生活するのが困難だった頃はよく惣菜を分けてくれたという。また、収入が不安定だったにもかかわらず、夫人との結婚を許してくれた義理の両親を敬愛しており、テレビ朝日系列の人気番組『大改造!!劇的ビフォーアフター』を通じて店舗兼自宅のリフォームをプレゼントしている。これが契機となり、「有名人の実家リフォーム相談スペシャル」がシリーズ化された。2007年末、トレーニングの一環として大相撲の宮城野部屋を訪れ、同部屋所属の第69代横綱・白鵬と稽古を行う。翌年2月、今度は白鵬が内藤の所属する宮田ジムを訪れ、サンドバッグ叩きやミット打ちなどを練習、親交を深めた。これが縁で、TBSの『関口宏の東京フレンドパークII』へ共に出演した。単発出演の番組は除く。
出典:wikipedia
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