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宮崎繁三郎

宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)出身。陸士26期。陸大36期。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。陸大に進み参謀教育を受けた。参謀本部、情報機関勤務が長かったものの、ノモンハン事件・インパール作戦など、日本軍側が圧倒的不利な状況で戦い、限定的な部隊内での指揮権しか与えられていない状況下の中、華々しい「勝利」を得ることはなかったものの部隊を維持し粘り強く戦った。日本軍が劣勢の戦場の中でも戦功を挙げた事は知られ、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、同事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。また停戦協定後には、機転を利かせて、駐留していた地域に日付と部隊名を彫った石を埋めさせ、そこは日本軍が占領していた地域であるという揺るぎない証拠を示す事で、国境線画定に大いに役立ったと言われている。これにはソ連側も驚嘆したと言う。ただし、この行為は命令に背くものであり、16連隊はソ連軍の戦車部隊の攻撃を受けて大きな損害を受けた。1944年のインパール作戦は、第15軍司令官牟田口廉也中将による補給を無視した無謀な作戦で、多くの犠牲者を出した。宮崎は陸軍少将で、第31師団・歩兵団長として参戦した。彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。コヒマはインパールへの補給路でありイギリス軍の激烈な反撃が始まると第31師団は疲弊し、援軍、補給が絶たれて孤立する。このとき佐藤幸徳第31師団長は無謀な軍命令に背き師団の糧秣を供給しないことに抗議した独断退却を開始するが、宮崎少将麾下の歩兵団には同地の死守を命令、師団主力は撤退を開始した。宮崎はこの無謀な命令に最善を尽くし、巧みな遅滞戦術により数週間にわたり持久戦を行い、その後新たな軍命令により撤退を果たした。この撤退時の行動が、優秀な指揮官・人格者・理性的軍人として賞賛されることになる。彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けたのである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた。インパール作戦後に第54師団長となった宮崎は、1945年4月にイラワジ河下流付近で防衛戦を展開した。しかし突如上級部隊であるビルマ方面軍の司令官木村兵太郎大将が司令部を放棄し逃亡したため、指揮系統を失った宮崎師団は敵中に完全に孤立する事態になった。殲滅される寸前で重装備を放棄してペグー山系の竹林に逃げ込んだものの、第54師団は補給や連絡が途絶えて今度は全軍餓死の危機に瀕してしまった。そこで7月下旬やむにやまれず分散して敵中突破を試みたものの将兵の多くが死亡、目的地のシッタン河東岸までたどり着いたのは半数以下であった(シッタン作戦)。宮崎はそこでも粘り強く防衛戦を展開して、ジュウエジンで終戦を迎えた。その後ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜となっていた時には、部下が不当な扱いを受けても決して泣き寝入りすることなく、その都度イギリス軍に対し厳重な抗議を行って部下を守った。戦いを終えて捕虜となっても、宮崎は指揮官としての義務を決して放棄しなかった。1947年5月に帰国した。帰国後は自らの功績を吹聴するような行動を行わず、政治的・経済的な活動を慎み、小田急線下北沢駅近くの商店街に『陶器小売店岐阜屋』を経営、店主として清廉で穏やかな生涯を終えた。今際の際、病床を訪れたかつての部下に「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度もうわ言を言ったという。宮崎はペグー山系からの敵中脱出時に多くの部下を失ったことを気にかけていたのだった。数多くの戦歴・インパール作戦時の優れた采配と理性的な行動から、宮崎繁三郎に対する評価は非常に高く、太平洋戦争における日本陸軍の名将の1人とされている。陸士、陸大での成績は至って普通であったが、前線において大いに能力を発揮するタイプの指揮官であったと言える。戦いは机上の兵学とは一線を画するものであることを示している。全ての戦歴において、宮崎に与えられた権限や兵力は決して大きいとは言えず、同じ戦場で同格だった他の指揮官に比べ、特別有利だったり優遇されたことは一度もなかった。しかしながら多くの武功を残したことは、どんなに過酷な事態に遭遇しても最善を尽くそうとする、野戦将校としての優れた指揮能力と人徳の高さを示している。宮崎はどのような窮地に追い込まれても弱音を吐いたり、無茶な命令を下す上官の文句や批判を決して口にしなかったという。インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ぶべき宮崎の行動は、同作戦を立案、指揮した牟田口廉也司令官と対極的なものとして語られる事が多い。戦後、この作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を口にするたび、一様に怒りに唇を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。

出典:wikipedia

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