野津 鎮雄(のづ しずお、天保6年9月5日(1835年10月26日) - 明治13年(1880年)7月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は正三位勲二等。薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)出身。幼名は七左衛門。諱は鎮雄。弟に陸軍元帥・野津道貫。大山巌の相談を受け、「君が代」の選定に関わったとされる。天保6年(1835年)、薩摩下級藩士野津七郎鎮圭(4石)の長男として生まれる。早くして両親を亡くし、弟とともに叔父折田氏に育てられた。青山愚痴に天山流砲術を、薬丸兼義に薬丸自顕流を学ぶ。文久3年(1863年)、薩英戦争に参加。青山愚痴配下として沖小島を守る。慶応3年(1867年)、小隊監軍として京都御所を守護。その後小隊長。慶応4年(1868年)、戊辰戦争では五番隊長となり鳥羽・伏見の戦い、奥羽・箱館に転戦した。維新後の明治2年(1869年)1月、藩兵4番大隊長を任ぜられる。続いて明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職。佐賀の乱では大久保利通指揮の下、大阪鎮台隷下の歩兵2個大隊砲兵大隊を率い、佐賀城奪回に貢献した。西南戦争では第一旅団司令長官をつとめた。戦後中将となる。明治13年(1880年)、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44。死後、正三位に叙せられた。
出典:wikipedia
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