仙台市(せんだいし)は、宮城県の中部に位置する同県の県庁所在地かつ政令指定都市。また東北地方最大の都市でもある。仙台市都心部周囲には広瀬川や青葉山などの自然があり、また都心部にも街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」との別名をもつ。市は「学都仙台」「楽都仙台」などのキャッチコピーも用いている。東北を代表する港湾およびサーフスポットである仙台港(仙台塩釜港)が北東部に、宮城県内の純観光地の中で宿泊客数第1位を誇る秋保温泉が南西部に、宮城県内で利用者数1位を誇るスプリングバレー泉高原スキー場が北西部にある。中国では、魯迅が留学した都市として知られる。現在の仙台市の推計人口は、東北地方の中で最も多い約/ 10000 round 0万人で、宮城県民の100* / round 1%が居住する。その仙台市が県内総生産の55.5%、県民所得の58.3%を占めており(2013年度)、「仙台一極集中」と言われることがある。また、仙台都市圏(広域行政圏)の推計人口は約+ + + + + + + + + + + + + / 10000 round 0万人で、宮城県民の100*( + + + + + + + + + + + + + ) / round 1%が居住する。このような集積度と東北における拠点性により、物販面では隣県に及ぶ仙台経済圏を形成している。当市はかつての宮城郡南部と名取郡北部に市域が広がるが、両郡の東部に広がる仙台平野(狭義)は、西と北を陸前丘陵、東を太平洋の仙台湾、南を阿武隈川に囲まれる。また、同平野の北部は長町-利府線断層帯 を境に、北西側が洪積台地、南東側が沖積平野に分かれる。当地は、畿内に端を発する山道(後に東山道に再編)と海道(後に東海道に再編)とが合一する唯一の地であり、その合一した街道は後年、奥大道や東街道と名称を変えながらも同断層帯およびそれに続く高舘丘陵の東縁に沿って南北に通る重要な道として存在し続けた。伊達政宗による仙台開府以前の当地では、この街道沿いを中心に、同断層帯・丘陵より東側の沖積平野にある自然堤防などの微高地(以下「東方微高地」)にのみ町場が形成された。「東方微高地」には、4世紀末頃に東北最大の雷神山古墳(現名取市、)や県内2位の遠見塚古墳()が築造され、7世紀半ばの陸奥国設置後は国府とされる郡山遺跡()や多賀城(現多賀城市、)、さらに陸奥国分寺()や陸奥国分尼寺()など同国の重要施設も置かれた。多賀城が11世紀前半に国府としての機能を失うと、陸奥国府は陸奥府中の南西部にあたる現・JR岩切駅()周辺の七北田川沿い「東方微高地」に移転し、南北朝時代まで続いた。12世紀には陸奥国府は多賀国府とも呼ばれるようになり、国府周辺には多賀国府町(たがのこう町)と呼ばれる、陸奥国の政治・経済の中心地としての町場が戦国時代まで続いた。当時のその他の町場には、原町の宿場、陸奥国分寺の門前町である国分日町、国分氏の小泉城下町、粟野氏の北目城下町()などがあり、いずれも「東方微高地」にあった。慶長5年12月24日(1601年1月28日)より政宗は、伝統的な当地の中心地である「東方微高地」ではなく、同断層帯より西側の洪積台地に広がる広瀬川の河岸段丘上に仙台城(青葉城、)および仙台城下町()を建設して仙台藩62万石の中心地とした。城下は、南北道の奥州街道と、仙台城大手門から石巻街道(塩竈街道)へとつながる東西道の大町とが交差する芭蕉の辻を商業中心とし、国分日町が移転してきた国分町、北目城下町が移転してきた北目町、そして伊達氏に従って移転してきた御譜代町6町などの町人町を城下の街道沿いに配置した。「東方微高地」では、小泉城および小泉城下町が政宗によって再編されて若林城()および若林城下町となったが、死後に廃城および仙台城下町に吸収合併された。また、原町の宿場は石巻街道(塩竈街道)下り第一宿駅の原町宿()に再編され、旧・北目城下町の西隣には奥州街道上り第一宿駅の長町宿()が設置され、それぞれ仙台城下町とコナベーションした。この結果、仙台は「2城下2宿場連接都市」の様相を呈した。またこれ以降、奥羽(東北地方)最大都市となった(参照)。旧・陸奥府中では、塩竈(現塩竈市、)が仙台城下町の外港として発展し、塩竈と仙台との間に造られた運河系により物流の中継地となった蒲生()や原町も発展した。明治になると、東京と青森のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置する当地に、東北鎮台(→仙台鎮台→第2師団)が設置されて陸軍施設が集まり、「軍都」の側面を持ち始めた。1878年(明治11年)に仙台区となり、1882年(明治15年)に木道社が日本初の人車軌道(後に日本で2番目の馬車軌道に転換)を仙台 - 蒲生間に開業。1887年(明治20年)には旧制二高が創立、日本鉄道(現JR東北本線)仙台駅も設置された。同駅の設置により、木道社は廃業して蒲生は中継地としての地位を失い、船運中心の江戸時代に発展した石巻や塩竈から、鉄道が集積する仙台に商権が移って、現在に至る「商都」の側面を手に入れた。1889年(明治22年)4月1日に市制施行。日露戦争を機に1907年(明治40年)には東北帝国大学(現・東北大学)が創立し、「学都」としての地位を確立。また、同年から大正、昭和初期にかけて「五大事業」を推進して近代都市へと脱皮し、「森の都」や「杜の都」と呼ばれるようになった。中心商業地は一番町へと移り(参照)、郊外ではかつて宮城郡役所が置かれた原町、名取郡役所が置かれた長町など隣接町村と合併して、これら新市域に工場地区を形成した。また、秋保電気鉄道や日本初の旅客用地下鉄を開業した宮城電気鉄道等の沿線には行楽地が開発された。1941年(昭和16年)、鉱工業が発達する福島県・秋田県に続いて東北地方で3番目に日本銀行の支店が置かれるなど、太平洋戦争前後に中央省庁の出先機関が集積する「行政都市」としての側面を得た。統制経済下で困窮した商工業者が満州国に渡って仙台村を拓いたり、仙台空襲により中心部が廃墟となったりした戦争が終わると、仙台駅前には大規模な闇市が生まれ、東北各地との間で鉄道を使った物資の集散もなされた(参照)。戦後占領期には戦災復興事業により、市街地に広幅員道路が縦横に建設されて現在の都心部の基盤となった。また、闇市に替わって公定価格マーケットや路上の屋台が市民生活を支える一方、宮城県に進駐した約1万人のGI向けに仙台駅北側のX橋(宮城野橋)周辺には歓楽街が誕生。X橋は日本ハードボイルド小説の嚆矢の舞台となった。高度経済成長期になると、企業の支店が多く進出して第三次産業が伸長し、「札仙広福」と並び称される支店経済都市となった。また、1964年(昭和39年)の新産業都市指定を機に、都市計画区域を隣接する宮城郡泉町(1971年より泉市、)・宮城町()、名取郡秋保町()に広げ、さらに1970年(昭和45年)には12市町による「仙塩広域都市計画区域」が指定された。すると人口集中地区 (DID) の急速な拡大とモータリゼーションが促進され、都心部の交通渋滞解決の必要から国道4号仙台バイパス沿いに工業・流通地区を新設、業者が移転して空いた国分町は歓楽街に転換していった。また仙台市地下鉄の計画も始まり、1976年(昭和51年)には仙台市電が廃止された。市電廃止は、「2城下2宿場連接都市」期における市街地の縁にあって、かつ市電と鉄道のターミナルだった北仙台・原町・長町の市内3拠点の商業中枢性を奪う結果も招いた。1962年度(昭和37年度)から県内総生産で、1980年(昭和55年)国勢調査からは人口でも(参照)、福島県を抜いて宮城県が東北最大県となった。すると仙台市は、泉・宮城・秋保の1市2町を編入合併し、県から権限を移譲されて市制100周年の1989年(平成元年)4月1日に全国で11番目となる政令指定都市に移行。この間、1982年(昭和57年)の東北新幹線開業に合わせ、仙台駅の建て替えと大規模なペデストリアンデッキを伴う駅前整備がなされ、1987年(昭和62年)の政宗ブームや地下鉄南北線開業に始まるバブル景気期には民間投資と箱物行政(参照)により都心部に高層ビルが建ち並び始めた(参照)。一方で市は郊外部において、北の泉中央副都心 、南の長町副都心、東の仙台港副都心(現みなと仙台ゆめタウン)、西の愛子副都心の4つの副都心を設定した。しかし、地下鉄沿線の泉中央・長町の両副都心やロードサイド店舗に物販・職場が郊外化する傾向が見られるようになったため市は、バブル崩壊後の1990年代後半からコンパクトシティを志向するようになり、都心部への「アクセス30分構想」を進めている(参照)。2000年代に入ると高速バスの仙台 - 福島線や仙台 - 山形線などにおける値下げ・増便競争、および、仙台発着便の新規開設が進み、県外からの集客力が一気に増強した。また、JR仙台駅東口側一帯における土地区画整理事業に伴って宮城野通が開通し、その地下にJR仙石線の地下新線が移転開通、東口駅前広場も完成した。そこに2004年(平成16年)、宮城球場()を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルス(チームカラーがクリムゾンレッド)が新規参入すると、都市計画用途地域で赤系色に塗られる地域(赤:商業地域、橙:近隣商業地域)への県外・海外資本の投資が進み「レッドバブル」と呼ばれた。2006年(平成18年)に仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(2008年10月1日 - 12月31日)の開催が決定すると投資は郊外を含めて加速、「ミニバブル」「プチバブル」などと呼ばれる活況を呈した(参照)。しかし、リーマン・ショック後の景気後退に加え、東日本大震災で大きな被害を受けた。震災後は復興の拠点となる一方、2015年(平成27年)の地下鉄東西線の開業も重なり、様々な開発が活発化している。市域は、東を太平洋、北を松島丘陵、西を奥羽山脈、南を名取川と境界としている。東西方向に宮城県を貫いており、奥州街道ルートで長距離移動する際、本市を経由せずに南北に移動することは不可能である。海岸から長町-利府線断層帯までが地質的には新しい沖積平野、その西が沖積平野より少し古い堆積岩類の台地であり、奥羽山脈の稜線近くは新生代に噴出した火山岩でできている。船形山、大東岳、神室岳などはいずれも50万年から150万年前に噴火した火山である。仙台市は奥羽山脈を挟んで山形県山形市と接している。都道府県庁所在地同士が隣接する例には、他に京都市と大津市、福岡市と佐賀市があり、経済的にも深いつながりを持つ。市街地は太平洋に開けた平野部に位置し、気候区分は太平洋側気候三陸型気候区に分類される。冬は海から近いことと晴天が多いため、東北地方としては温暖である。八王子市や宇都宮市といった関東地方の都市よりも最低気温は高く、真冬日は稀である。東北地方の県庁所在地の中で最も降雪量が少なく、積雪が一週間以上残存することは少ない。夏は太平洋からの海風の影響で気温はあまり上昇せず、夏日にはなるが真夏日・熱帯夜が少ない。また、霧の発生回数が政令指定都市の中では抜きん出て多いが、これは海上からの「移流霧」が主要因である。梅雨から初夏、秋分前後には、北東からの冷たい海風により、曇りがちとなって冷え込むことがある。年間平均気温:12.4 °C、降水量:1254.1mm、日照時間:1796.1時間。真夏日と真冬日の合計(うち真冬日1.7日)は約19日で、都道府県庁所在地の中で最も少ない。2番目は水戸市の約33日で、東京都(千代田区)の約49日と比べても非常に少ない。春から夏にかけて東風が卓越し、オホーツク海気団の冷涼湿順な海風が入り、奥羽山脈によるフェーン現象の影響を受けにくいことが要因である。冷涼な海洋性の気候で寒暖の差が少ないと言える。地名の語源は諸説があり、などが主なものであるが、1.の国分氏由来の説が一般的に信じられている。政宗が改めた「仙臺」との表記は、中国の前漢代(紀元前206年 - 8年)の故事とそれを題材にした唐代(618年 - 907年)の漢詩に由来する。紀元前2世紀に前漢帝国の文帝が、黄河の支流に住む河上公という仙人と会った。文帝は儒教の政治思想(中華思想)から「大空の下に王の土地でないところはなく、大地の果ての浜辺まで王の臣下でない者はいない」と言って服従を求めたところ、河上公はその言葉を聞くなり空中に昇り「上は天に至らず、中は人に煩わされず、下は地に住まない」と言い放って、道教の思想から専制君主の臣下であることを拒んだ。すると文帝は「下車して礼をなし」、河上公に道を求めた。文帝は帝国の繁栄を願って首都・長安の西方に仙人たちが集う「仙遊観」という宮殿を建てたが、「仙遊観」はその壮大さから「仙臺」と呼ばれた。唐帝国の大暦期(766年 - 779年)に活躍した詩人で大暦十才子の1人に数えられる(かんこう)は、中国で伝説上の存在として知られる仙境崑崙山(こんろんさん)の五城十二楼(ごじょうじゅうにろう)の宮殿に「仙遊観」をなぞらえて、その素晴らしさを讃えた以下のような七言律詩を詠んだ。上文の「丹丘」とは、神々の住処のこと。「仙臺」の表記は直接的にはこの『同題仙遊観』に由来するとされる が、「仙遊観」の故事を含めて命名したとする見方もある。故事では仙人が君主の権力を超越していることを示しているため、慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ヶ原の戦いによって徳川家康が天下人となった約3ヶ月後、仙台城の建設を開始した慶長5年12月24日(1601年1月28日)になってもなお、政宗は家康の権力を超越する存在であると「仙臺」の名で示したとも言われる。戦後「仙臺」は新字体を用いて「仙台」と表記されるようになった。当項目「せんだい」の漢字表記には、「仙台」以外に下記の例が見られる。このうち「千代」と「仙臺」は、仙台土産の商品名などに使用される例がしばしば見られる。「僊」は「仙」の異体字、「臺」は「台」の正字体であるため、字体による差を除くと「仙台、千代、先代」の三種が存在する。宮城県は東北地方では最も面積が小さく、自然障壁の少ない仙台平野に県民の大半が居住するため、その中心である仙台市への一極集中がみられる。平成17年国勢調査での県内人口占有率は43.43%、22年調査では44.55%、宮城県市町村別推計人口の平成23年7月1日付で45%を突破した。また、同24年1月1日付で県内人口2位の石巻市の7倍を超えた。市内の人口は65歳以上が割合を増やしているが、大学や各種専門学校が多いため(→「学都仙台」)、若年者人口の割合が大きい。支店経済都市と言われる仙台市は、人事異動に合わせるように統計上、年度末に約2万人が流出し、年度始めにほぼ同数が流入する。近年は、3月・4月に差し引き約5,000人程度総人口が減少し、5月・6月に回復する。同様に、第2四半期末から第3四半期始めの9月・10月にも人口が減少し、11月に回復する。2000年代になると人口の社会増(転入超過)は僅少になり、2004年(平成16年)度からは社会減(転出超過)に転じた。転出先のトップは東京都であるが、隣接する富谷市・利府町・名取市などでの宅地開発の進展も、転出増の背景となっている。社会減を自然増で補う形で数千人/年程度の人口増となっていたが、2011年に発生した東日本大震災により、人口動態が大幅に変化した結果、社会増が回復基調にある。2012年における仙台市の転入超過は、東京23区に次ぐ全国2番目の数値となった。都市としての仙台市は、伊達家62万石の城下町から発展したため、その名残りで都心部の道路は碁盤の目状になっているが、広瀬川の河岸段丘上に立地している点や、戦災復興都市計画#仙台の戦災復興計画において広幅員の道路を縦横に通したことにより、完全な碁盤の目とはいかずやや変則的である。伊達政宗の都市計画は、後に仙台をして 「杜の都」 と呼ばしめたが、戦前までの「杜」は、都市の近代化のために失われた部分も多い。しかし、市当局や市民の努力により、都心部に限らず、多くの道路に街路樹が植えられ緑化が進んだ。また、都心を取り囲む丘陵地や水田などの開発規制を行い、同心円状に、都心・グリーンベルト・住宅地という大ロンドン計画を模した都市計画を作成した。本市を含む5市4町1村からなる「仙塩広域都市計画区域」(仙台都市圏)により都市計画がなされている。また、都心部を中心とした青葉区が東北最大の超広域商圏を形成し、泉中央副都心を中心とした泉区、および、長町副都心を中心とした太白区が広域商圏を形成している。市における副都心として、旧奥州街道(現国道4号)下り第一宿駅・七北田宿から発達した泉中央副都心、旧奥州街道(現国道4号)上り第一宿駅・長町宿から発達した長町副都心、旧作並街道(現国道48号)下り第一宿駅・愛子宿から発達した愛子副都心、そして、仙台港副都心(みなと仙台ゆめタウン)の4つが指定されていた。しかし市は現在、「副都心」の名称を都市計画で使用しなくなり、市が主導して整備をし、広域商圏をも併せ持つ泉中央と長町が「広域拠点」、愛子が「市西部(旧宮城町)の地域中心拠点」、県が主導して整備しているみなと仙台ゆめタウンが「国際経済交流拠点」と、機能によって色分けがなされている。その他の拠点として、東北大学と宮城教育大学がある青葉山地区が「国際学術研究・交流拠点」とされ、広域商圏を持たない宮城野区と若林区では各区の区役所周辺が「区の生活拠点」とされている。因みに、宮城野区役所がある原町は、旧石巻街道(現国道45号)下り第一宿駅の原町宿から発展した地区で、若林区役所は伊達家養種園跡にある。その他、秋保温泉と作並温泉に温泉街が形成されている。業務・商業地流通・工業地区日本のニュータウン#宮城県を参照高度経済成長期までの都市軸は、それぞれ鉄道も並走している、旧奥州街道を踏襲した国道4号沿い(都心から南の地域)と北東の多賀城・塩竈・松島に向かう国道45号沿いを中心に形成された。1960年代初頭には仙台市を中心に松島町から岩沼市にかけて合併・政令指定都市移行を目指したが失敗に終わった。要因は当時の仙台市の革新市政を周辺市町の保守系首長が嫌ったため、といわれている。この時、合併調印前日に多賀城町(現・多賀城市)長が突如合併を批判し合併から離脱したため、仙塩合併は一夜にして瓦解。仙台市の政令指定都市への移行も先延ばしとなり、都市の発展が著しく遅れる結果となった。その後、人口増を背景に市の北部から南西部にかけての丘陵地に都心を囲むように新興住宅地が造られた。これらの住宅地と中心部とを繋ぐ旧国道4号沿い(都心から北の地域)や国道286号沿いが新たに都市軸に加わった。新都市軸の北の中心である旧泉市と、西側の旧宮城町・旧秋保町を編入し、1989年に政令指定都市となる。新都市軸では1987年に仙台市地下鉄南北線が開業したことで、計画都市である北の泉中央(泉区)・南の長町南(太白区)では副都心化が進み、大型商業施設やマンションが林立した。また、仙台北環状線(北環)や仙台西道路の完成により、中心部から西向きの都市軸も形成された。この軸上には東北自動車道の仙台宮城ICがあることから広域産業が進出し、アウトレットモールや宮城県立こども病院、高等教育機関などが立地した。仙台の街は、仙台駅、および東北新幹線・東北本線によって大きく東西に分けられている。仙台駅の西口側は、江戸時代からの城下町・仙台の中心部があったところで、現在に至るまで中心部であり続けているが、南は広瀬川、西は青葉山、北は北山-台原の丘陵地、東は東北新幹線と、四方が囲まれており、都心部の拡大が容易ではない。そのため、バブル期に、仙台の地元企業の経済力を超えて地価暴騰が起きる懸念があったが、バブル期以前から開発されていた地下鉄南北線、とりわけ泉中央副都心および長町副都心の存在により、地価上昇圧力が泉中央や長町への都市機能の分散を推進し、暴騰は回避された。反面、デフレ期に入ると都市規模に対して疎になった都心の地価下落が止まらず、担保価値が減少した土地上の低層オフィスビルや低層住宅が、高層マンション等に取って代わり、住民の都心回帰を助長している。一方、仙台駅の東口側は、古くからの町並みが残る地区となっていた。特に南東側の若林区は下町の趣があり、江戸時代から続く地名が残る。この下町地域の東側に隣接していた水田地帯には、1960年代に仙台バイパスが造られ、同時に卸売り業者・流通業者・車関係などの事業所、および印刷業の工業団地などの広大な流通・工業団地が卸町・六丁の目・扇町などに造られた。業務地・工業用地の指定のみで住宅地の指定がなく、周囲の水田も国政・市政により農地指定が解除されなかったため、背景人口が増加せず、東口の商業集積を阻害してきた。90年代に入り卸を通さない「中抜き流通」が主流になると、卸町の存在意義が薄れ、規制を解除して住宅地へ転用する動きが始まり、地下鉄東西線の建設によって促進されることとなった。また、仙石線の地下化に伴った区画整理・再開発(仙台市の土地区画整理事業一覧、日本の再開発の一覧#宮城県)により、東口は街の形が大きく変貌。東口の駅前から延びる宮城野通り完成後は、通り沿いに仙台のIT企業が集中し始め、2005年(平成17年)より東北楽天ゴールデンイーグルスが宮城球場を本拠地にするに到って更に開発に弾みがついた。2015年(平成27年)12月6日、仙台市地下鉄東西線:八木山動物公園駅-荒井駅が開通し、仙台駅西口側と東口側の一体化を推進していくことになった。東西線の仙台駅は西口側にあるが、仙台駅東口から150m付近に宮城野通駅が設置され便宜を図っている。1990年代後半より東北大学病院の東端に沿って南北に走る木町通の拡幅作業がなされ、2012年に全線開通したこの道は、北向きに輪王寺を北山トンネルで通過し、桜ヶ丘・泉パークタウンを貫いて大和町へと至る宮城県道264号大衡仙台線(都市計画道路北四番丁大衡線)である。この道路は、北西部の住宅地と中心部とを結ぶ幹線道路という側面の他に、この道沿いに存在する東北大学病院・東北大学医学部・フィンランド健康福祉センター・宮城学院女子大学・宮城大学・宮城県図書館・泉パークタウン内の数々の研究施設、そして仙台北部中核工業団地を結ぶ「智の回廊」として機能することも期待されており、「学都仙台」の戦略的道路となっている。また、東北大学病院の新東病棟1階に新たに設置される高度救命救急センターへの搬送路としての役割も持ち、当道路と東北自動車道が交差する付近に泉PA/スマートICが設置されている。都市としての仙台の歴史は、慶長5年12月24日(1601年1月28日)の伊達政宗による仙台城の建設に始まる。仙台輪之内あるいは仙台輪中と呼ばれた江戸時代の仙台の範囲は、青葉山にある仙台城とその麓・河原にあたる川内と、広瀬川対岸の台地上に作られた城下町からなる南北5キロメートル、東西4キロメートルほどの範囲で、現在の市域のごく一部である。中世には青葉山に寺がいくつかあって地方的な霊場の様相があったが、後の城下町にあたる場所は古代から中世まで人家が稀な原野だった。しかし、現在の仙台市域に広げて歴史を眺めると、いくつもの集落や町の興隆と変遷が認められる。弥生時代からの水田遺跡である富沢遺跡と南小泉遺跡の周辺は、古墳時代に入って多数の古墳が築かれた地域の中心であった。7世紀末から8世紀初めまでは郡山遺跡に陸奥国の国府が置かれた。8世紀には南小泉遺跡の北隣に陸奥国分寺と陸奥国分尼寺が建てられた。中世には多賀城から国府が市域北東部の岩切に移り、町が形成された。戦国時代には、国分寺から南小泉遺跡にかけて国分日町と呼ばれる町があった。他にも中世には平野部から山間の盆地まで、各地に集落や武士の館が作られた。以降の説明では、中世に至るまで単に仙台という場合には江戸時代の仙台の範囲を指し、現在の仙台市の範囲を指す場合には特に仙台市域と呼んで区別する。江戸時代以降はそれぞれの時代の仙台をもって仙台と呼び、現在の市域と区別する。仙台市域では、富沢遺跡で旧石器時代の焚き火跡が見つかっている。縄文時代の遺跡としては、山田上の台遺跡に集落があり、市内各地で遺物・痕跡が残されている。当時の人々は低湿な平野を避けて丘陵に居を構えたので、丘陵が海に続く松島湾沿いに遺跡が集中し、仙台市域では少ない。弥生時代に人々は稲作適地を求めて平野に進出し、名取川と広瀬川にはさまれた富沢遺跡と、広瀬川の北で仙台の東にある南小泉遺跡で水田が営まれた。古墳時代に入ると、富沢遺跡の周辺に一塚古墳、二塚古墳、兜塚古墳など中小の古墳が作られた。南小泉遺跡の周辺にも中小の古墳が作られ、4世紀末には若林区に遠見塚古墳という東北地方最大級(第3位)の古墳が築かれた。第1位の雷神山古墳は名取川の南、現在の名取市内にあり、二つの巨大古墳の間に多数の中小古墳が散らばっていた。国郡が確定したとき、仙台市域は大部分が宮城郡に、今の太白区全体と若林区南部が名取郡に属した。若林区で両郡の境は、自然な境界になりそうな広瀬川・名取川から北にはみ出て曲がりくねっているが、これは昔の広瀬川の流路の痕跡とされる。7世紀末からしばらくの間、市の南部の郡山遺跡には陸奥国の国府が置かれた。郡山遺跡の東西には東多賀神社と西多賀神社が建立され、周辺には東北地方最大級の環濠集落もあった。国府は神亀元年(724年)に多賀城に移転したが、740年代か750年代に、仙台の東、南小泉遺跡の北にあたる木ノ下の地に陸奥国分寺と陸奥国分尼寺が建てられた。陸奥国分寺には巨大な“七重の塔”があった。国分寺の周辺は宮城野・宮城野原と呼ばれる原野で、平安時代には萩で名高い歌枕になった。10世紀半ばに多賀城が国府機能を喪失したとき、国府は仙台市域の北東端、七北田川北岸の岩切に移転したと推定される。鎌倉・南北朝時代まで、多賀国府と呼ばれたところである。七北田川の両側に町が形成され、北岸では今の多賀城市の一部まで広がっていた。東北地方(奥羽)全域を支配していた奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされると、鎌倉時代の東北地方には頼朝の側近である伊沢家景・葛西清重の両名が奥州惣奉行として置かれ、葛西氏・伊沢氏の双頭体制となった。こののち、伊沢家景は多賀城の“留守所長官”として陸奥留守職となる。伊沢家景は現利府町に定住し、26年間を利府で過ごして没した。伊沢家景の子の代から、伊沢氏は留守氏と呼ばれた。伊沢家景の子孫も、代々、陸奥留守職に就任した。こうして鎌倉時代の仙台(東北地方)は、留守氏の支配下に置かれた。室町時代になると、室町幕府の管領家・斯波氏の一族である大崎氏が奥州探題を世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれた。大崎氏の本拠地は宮城県大崎市古川地区である。弥生時代より、仙台が“東北地方の政治的中心地”から遠ざかったのは、この室町時代だけである。中世、現在の仙台市域の大部分は国分氏の支配下にあった。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と、激しく対立した。しかし戦国時代に入ると、両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏からたびたび養子を迎えて相手方より優位に立とうなどの努力をしたが、次第に伊達氏の隷属化に組み込まれていく。大永2年(1522年)、伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗は、室町幕府将軍・足利義晴から、陸奥守護職に任じられた。すでに稙宗の偉名は東北地方全土に浸透していた。子だくさんの稙宗は東北地方の有力大名と政略結婚を繰り返し、奥羽に血縁ネットワークを築き上げた。しかし、その政略結婚が原因となって、天文11年(1542年))、嫡男・伊達晴宗との間に「天文の乱」が勃発した。この乱は東北地方全土に波及し、東北の戦国大名を二分する大乱となった。天文17年(1548年)、「天文の乱」は、将軍・足利義輝の和睦勧告を受けて、伊達晴宗の勝利で幕を閉じた。伊達晴宗は将軍から奥州探題に任じられた。晴宗は息子の一人を、現利府町周辺を支配していた戦国大名・留守氏の跡取り養子とした(留守政景)。同じく晴宗は息子の一人を、現仙台市東部を支配していた戦国大名・国分氏の跡取り息子とした(国分盛重)。伊達政宗の父・伊達輝宗も本来であれば奥州探題に任じられていたところであったが、織田信長が室町幕府を滅ぼしたため、輝宗は奥州探題になることができなかった。伊達政宗の叔父・国分盛重が政宗の下から逐電すると、国分氏の領地であった現仙台市は政宗の直轄領に組み込まれる。なお、国分氏が城主の時代の城下町の系譜を引くのが、現在の国分町である。伊達政宗は常陸国の戦国大名・佐竹義重、および会津地方の戦国大名・蘆名氏らとの抗争に勝利し、東北地方の南半分を征服して“奥羽の覇者”となった。北条氏政親子と同盟関係にあった伊達政宗は北関東の征服を目前のものとしたが、織田信長の後継者となった豊臣秀吉に服属し、秀吉は北条氏らを滅ぼして日本統一を達成する。秀吉は政宗の領地を、先祖ゆかりの現福島県および現山形県南部および現宮城県南部から、現宮城県全域および現岩手県南部へと、北へ追いやった。これに反発した政宗は、奥羽の戦国大名・葛西氏・大崎氏を扇動して葛西大崎一揆を起こす。しかしこの一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は一揆を鎮圧する羽目になる。政宗は葛西大崎一揆を鎮圧し、秀吉の命令で居城を岩出山城に遷した。この頃から政宗は徳川家康に接近し、秀吉の死後、家康の天下取りに協力する。関ヶ原の戦いの後、慶長5年12月24日(1601年1月28日)政宗は新たな居城仙台城を築城開始すると、仙台の地に人口約5万人の城下町を築いた。その後も政宗は慶長18年(1613年)、スペイン帝国に慶長遣欧使節を派遣するなど、名君として君臨した。天正まで、現在の仙台の地は「千代(せんだい)」と呼ばれていた。慶長5年12月24日(1601年1月28日))伊達政宗が青葉山に仙臺城(仙台城)の縄張りを始め、城下町を開いて当地の名前を「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としての歴史が始まった。表高62万石の仙台藩は、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩であり、城下町としての仙台も発展した。伊達政宗が来るまでは戦国大名、国分氏の居城があった。1611年11月8日(慶長16年10月4日)に仙台を訪れたセバスティアン・ビスカイノは、仙台城から見た城下町の様子を「江戸と同じくらいの大きさだが、建物はもっと立派」と報告している。開府後も城下町は拡張を繰り返し、政宗隠居の館である若林城が完成するのと前後して、寛永年間に南東方向へ大幅に町が拡張した。さらに正保・寛文年間には東照宮の造営された北東方向に、延宝年間には東部・北部方面へ町が更に拡大した。宗門人別改制の導入により、江戸時代の仙台の町方・寺院方人口が一部記録として残っており、以下の表にまとめる。これに城下に暮らしていた武家人口を加えたものが実際の仙台の総人口ということになるが、城下在住の武家人口は不明である。但し郷士を含む仙台藩の武家人口は仙台藩の総人口の22%から26%を占めるなど(例えば1695年(元禄8年)の仙台・一関藩総人口81万9749人に対して一門・諸士・諸組・諸職人の人口は20万5916人)、武家の割合は非常に高かった。この内、女・子供を除いた仙台藩家臣団の総数は約3万5000人で、伊達家直属の家臣団が約8000から1万人を占め、残る約2万5000人は陪臣の家中士である。『仙台士名元牒』記載の寛文元年(1661年)の伊達家直属の家臣団は8952人だが、1戸平均5人を仮定すると伊達家直属家臣団の武家人口は4万4000人、最盛期の仙台の総人口は7万人以上ということになる(小倉博説)。この数字は多くの本で引用されているが、実際には直属の家臣団全てが城下に在住していたわけではないので、若干過大評価と考えられる。寛文10年(1670年)の『御知行帳』と寛文年中の仙台城下絵図を比較すると、絵図に氏名が記入されている組士以上の侍の数は3746人中2522人、また城下在住とみられる卒・職人の数は4670人中3359人であり、合計5880人に1戸平均5人を仮定すると、城下在住の武家人口は2万9400人、総人口5万7000人と推定される。城下町の膨張がほぼ終結する延宝年中(1680年頃)の仙台城下絵図では、組士以上の侍の数が3288に増えている。最盛期の延宝・元禄・享保の頃には城下に暮らす武家人口は約4万人に迫り、仙台の総人口も6万人を超えていたと推定される。武家人口は町の総人口の6割を超え、また武家地の面積は町の総面積の7割を超え、「武士の都」であった。18世紀中頃から、仙台藩の人口減少が始まる。明和9年(1772年)の『封内風土記』では侍屋敷の廃屋の記載があり、また安永年中(1780年頃)の仙台地図では組士以上の屋敷の数が3042に減少しており、18世紀中頃には城下の人口も緩やかに減少していたと思われる。天明の大飢饉を境に大幅な人口減少が起こり、仙台の町も一時は武家人口を加えても4万人台まで落ち込んだとみられる。文化年中(1810年頃)、安政年中(1856年頃)の仙府絵図では組士以上の屋敷の数がそれぞれ2325、2382で、19世紀以降幕末まで、大体5万人前後の人口で推移したと推定される。江戸時代の仙台の都市人口は、突出した大都市であった三都(江戸・大坂・京)や10万人規模の人口を有した名古屋・金沢に比べれば少ないものの、他の大藩の城下町(鹿児島・広島・和歌山・徳島)や重要港町(堺・長崎)と並び、日本で十指に入る都会として賑わった。但しその人口は東北地方の他の城下町(秋田、弘前、鶴岡、米沢、盛岡、若松などが2万人〜4万人規模)と比べて極端に突出した都市ではなかった。また城と城下町の総面積は正保年間に10.37 kmと、名古屋(9.20 km)や金沢(7.46 km)をも凌ぎ、広さの上では三都に次ぐ都市規模を誇っていた。仙台藩は幕末に、幕府から蝦夷地警護の使命を託され、北海道に多くの領地と警衛地を有し、その面積は北海道のほぼ三分の一を占めた。明治元年(1868年)の戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となって旧幕府側を支援した(すでに幕府は滅亡していたので、旧幕府側とは別個の勢力)。列藩同盟の政府機関である「列藩同盟公儀府」は白石市におかれた。仙台藩主伊達慶邦は孝明天皇の弟である輪王寺宮(のちの北白川宮)を列藩同盟の盟主にそえた。このとき列藩同盟(同盟政府)には輪王寺宮を「東武天皇」として即位させ“仙台朝廷”をつくる計画があった。伊達慶邦は征夷大将軍になる予定であった。しかし、敗戦によりこの計画は幻と消えた。敗戦により石高を半分以下に減らされた際、伊達一門ら仙台藩各地の領主たちは、困窮した多数の家臣団を蝦夷地(北海道)へ集団移住させる決断を下した。これにより大量の知識階級(武士階級)が北海道へ流出した。仙台藩は明治新政府と共同で札幌市を開拓したほか、単独で伊達市などを開拓した。こうして仙台藩は北海道の開拓史に大きな功績を残した。明治4年(1871年)の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割され、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県が置かれた。その後何度か境界変更を繰り返し、現在の規模になった明治5年(1872年)に宮城県と改称して、同時に仙台区が置かれた。当時の仙台区は、現在の中心部ほどの広さであった。また県の名前を旧大藩・県庁所在地由来の「仙台県」とせず、郡名由来の「宮城県」という県名に変更するように上申を出したのは初代県令(参事)の塩谷良翰であり、人心一新を旨とするものである。なお県名改称について、明治政府が朝敵側の大藩由来の県名を懲罰的に郡名に変えたとする説があるが、これは宮武外骨が昭和になって提唱し、司馬遼太郎によって広められた説であり、実際は官軍側であっても県名に郡名を採用している例があることからも、俗説の域を出ない。一方で旧大藩名を県名に転用した大蔵省原案の内、宮城県や愛知県など18県名が後から郡名に変更されており、官軍・賊軍を問わず旧大藩の影響力をできるだけ排除しようとした明治政府の意図があるとする意見もある。明治政府による中央集権体制下、仙台には東北地方の拠点都市として、国の出先機関の設置が進められた。また、1887年(明治20年)には旧制二高、1907年(明治40年)には東北帝国大学といった高等教育機関が設けられた。旧仙台藩の諸施設は接収され、明治政府によって転用された。仙台城二の丸には陸軍第二師団司令部と歩兵第三旅団司令部、現仙台国際センターには工兵第二連隊司令部、現榴岡公園には歩兵第四連隊司令部が置かれ、輜重兵第二連隊(現亀岡住宅)、騎兵第二連隊第二連隊(現東華中学校)の他、練兵場(仙台城三の丸)、宮城野原練兵場(現宮城野原公園総合運動場および仙台貨物ターミナル駅ヤード)および飛行場(現国立病院機構仙台医療センター)、射撃場(旧警察学校〜現台原小学校)、工兵作業場(現東北大学青葉山キャンパス)、偕行社(現西公園)、招聘社(仙台城本丸 現宮城縣護國神社)が置かれた。第二師団が置かれて「軍都」となり、(旧制)第二高等学校が置かれて「学都」となった仙台は、殖産興業の時代に工業ではなく、これら「第二」が付く陸軍や学校の消費活動に都市経済が依存していたため「第二都市」と呼ばれた。1887年(明治20年)12月、日本鉄道の上野 - 塩竈間(現:JR東北本線)が開通、それ以前には数日間を要していた仙台〜東京間の移動が、半日程度に短縮された。1889年(明治22年)には市制が施行され、仙台区は仙台市となった。当時の人口は90,231人であり、国内第8位の規模であった。1923年(大正12年)、周辺町村との合併が初めて行われ、長町、原町、南小泉地区が編入された。これ以降も仙台市は、周辺市町村との合併を繰り返した(→市域の変遷)。20世紀初頭における仙台市政の目標は、五大事業を内容とする都市計画事業と、商業・軍事・行政都市から工業都市への転換であった。1926年(大正15年)に仙台市電が開業した。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、仙台市街はアメリカ軍による戦略爆撃を受けた。B-29爆撃機123機による焼夷弾絨毯爆撃によって2,755名が死亡し、市内中心部は廃墟と化した。瑞鳳殿や仙台城大手門といった国宝(当時)も焼失し、伊達政宗の時代から続いた「杜の都」は消失した。終戦後の9月、仙台には塩竈から上陸したアメリカ軍第14軍団が進駐し司令部を郵便貯金ビルに設置した(12月に第9軍団に交代)。そして第11空挺師団が厚木飛行場から進駐し司令部を仙台陸軍工廠に設置した。GHQが軍政組織を縮小するようになると第9軍団は1949年7月に軍政をやめて民政を使うようになり、さらに12月には民政部も廃止した。その後民政はGHQの民事局が1952年まで行った。仙台にあった陸軍は解体され、軍事施設の跡地は主に公園になった。また、東二番丁通り、広瀬通り、青葉通り、定禅寺通りなどの広幅員の道路を縦横に通し、近代都市としての基盤が造られた。これらの大通りには、「杜の都」の復興を願って多数の樹木が植えられた。これらの樹木は、後に大木に成長して「新しい杜の都」の象徴となる並木道へとなっていく。トラック流通の需要増加と共に1966年仙台バイパスの供用が開始され、卸・流通団地の整備が図られた。1975年には東北自動車道が開通し、トラック流通・卸売りにおける東北地方の中心地の一つとなり、東北地方の経済都市としての拠点性は一層高まった。高度経済成長(第三次産業型)と支店経済の発展により、1967年には人口50万人を超える。一方で交通渋滞が深刻となり、1976年に仙台市電が廃止された。1978年(昭和53年)6月12日夕刻、宮城県沖を震源とする大規模地震が発生、仙台市では震度5を記録した。倒壊したブロック塀の下敷きになるなどして28名が死亡、仙台市(現在の市域相当)では住居4,385戸が全半壊したほか、電気、ガス、水道も最大1週間に渡って停止した。宮城県沖地震は、日本全国の建築基準を全面的に改定させた。この建築基準が17年後の阪神・淡路大震災まで続くこととなる。1980年(昭和55年)、東北自動車道が埼玉県の浦和インターチェンジまで延伸。1982年(昭和57年)には東北新幹線が大宮駅 - 盛岡駅間で開業した。これらによって、仙台市と首都圏および東北地方各地との移動は飛躍的に容易となった。この頃、新仙台駅が誕生し、仙台駅西口にペデストリアンデッキも誕生した。1984年、保守系の石井亨が新市長となり、「仙台・青葉まつり」が1985年に再開された。また、「SENDAI光のページェント」も同年に始まった。1987年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が放送される。本作が“NHK大河ドラマ史上最高視聴率”を記録し、大量の観光客が仙台に押し寄せ、仙台七夕を初めとした既存の祭りやイベントも過去最高の入り込み客数を記録する。この年は「'87未来の東北博覧会」も開催され、地下鉄南北線も開業するなど、政令指定都市移行前夜の仙台でバブル景気が始まった。1988年、仙台市は泉市、および宮城町、秋保町を合併し、1989年に第11番目の政令指定都市になった。バブル景気の後押しもあり、全国市長会会長を務める石井のリーダーシップのもと、数々の文化施設を建設し、大規模イベントを始めるようになった。1989年には、「グリーンフェアせんだい」が泉中央副都心の七北田公園で開催された。しかし、1993年、石井が宮城県知事であった本間俊太郎とともにゼネコン汚職事件で逮捕され、仙台のバブルも終焉を迎えた。バブル期の開発行政の一方で、1985年に「SENDAI光のページェント」、1991年に「定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台」が市民ボランティアの手で始まった。1994年にはプロサッカークラブ「ブランメル仙台」(後のベガルタ仙台)が誕生。1997年には仙台市泉区にホームスタジアムである仙台スタジアムが建設された。1998年からは「みちのくYOSAKOIまつり」、2000年から「伊達ロック」、2001年から「Jazz Promenade」と「とっておきの音楽祭」など、市民ボランティアが主体となって開催する「街を舞台装置とした無料の屋外イベント」が多数開催される街へと変化した。2000年前後から始まった東北地方の陸上交通の再編の動きの中、仙台が小売の中心地として東北地方各地から買い物客を引き付けるように変化した。2004年にはプロ野球チームの「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生。他のプロ野球チームを持つ都市との間に交流が始まる一方で、東北地方全体からの誘客力も上昇した。2005年には、プロバスケットボールの「仙台89ERS」も設立した。1978年の宮城県沖地震から33年後の、2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)によって、地震・津波の甚大な被害を受けることとなった。仙台市内は震度6弱、震度6強の強い揺れに見舞われたが、政令指定都市で震度6弱以上の揺れを観測したのは、2005年の福岡県西方沖地震で福岡市で震度6弱を観測して以来となる。また、大津波が押し寄せた宮城野区・若林区を中心に多くの家屋が倒壊・流失し、市内の全住宅約50万戸のうち10万戸以上が全半壊するという壊滅的な被害を受けた。仙台市内の死者数は約850人にものぼった。また、この時期に物流や商業の新拠点として開発がすすめられていた仙台港後背地も甚大な被害を受けた。震災後、津波の被害を受けた地域などでは、市が主導して復興特区制度を取り入れ、新たな地域産業の開拓を今後10年間行い復興する計画がされているほか、民間企業によるものも複数計画されている。現在の仙台都心部を含んだ北側(広瀬川上流域および中流域の北側、七北田川流域など)は宮城郡、南側(広瀬川中流域の南側と名取川流域など)は名取郡に元々所属していた。大藩であった旧仙台藩や旧東北帝国大学の存在を礎にした文化・教育・工業技術・科学技術の分野に関する事項が多い。仙台市が政令指定都市に移行した1989年(平成元年)に、5つの行政区が置かれた。その際、旧泉市は泉区とし、旧仙台市域を4分割したうえ、単独区とするには人口が少なかった旧宮城町を青葉区に、同じく旧秋保町を太白区に併合する区割りとされた。現在でも旧宮城町には青葉区・宮城総合支所、旧秋保町には太白区・秋保総合支所という、それぞれの地域を管轄する役所がある。青葉区には、旧宮城町域(宮城地区)を分区する構想がある(青葉区分区問題)。なお、区名選定にあたっては方角や中央といった抽象名詞を極力使用しない命名がなされた。中心業務地区や流通・工業地区が区内にある青葉区・宮城野区・若林区は昼間人口が多いが、太白区および泉区は市が各々に長町副都心および泉中央副都心を指定しているものの昼間人口が少なく、両区はベッドタウンの様相が色濃い。なお、区内に中心業務地区がある上記3区は六道の辻で区境を接する。1946年に公選による市長選出が開始される以前には、大都市行政の専門家として、もしくは中央省庁に対する発言力の確保のために、知事や長官級の大物官吏出身者を市長として据えるのが通例であった。戦後の市長6名については、うち2名が仙台市役所の出身者、1名は弁護士という、中央での職歴を持たない人物である。△は在職中死去いずれも、出納取扱金融機関は七十七銀行である。仙台市における「公営事業」としては、ガス・水道(上水道)・下水道・バス・地下鉄・病院の6つで構成されるが、公営企業としては上述の3事業者が4事業を手がけており、病院事業(仙台市立病院)と下水道事業(仙台市建設局下水道経営部)が、公営企業の形態をとっていない。1991年(平成3年)10月、公文書の開示と市政情報の提供を骨子とする「仙台市情報公開条例」が施行された。1993年(平成5年)のゼネコン汚職事件では、当時の仙台市長が収賄による有罪判決を受けることとなった。これを端緒に仙台市では、全国にさきがけて仙台市民オンブズマンが誕生することとなった。しかし2004年(平成16年)、東北文化学園大学補助金不正受給事件が発生、副市長が辞任に到った。※2015年8月27日現在。※2015年11月22日現在。救急指定病院・災害拠点病院青葉区宮城野区若林区泉区太白区2007年度の市内総生産は4兆2784億円であり、宮城県の51.6%を占めている。国内総生産(GDP)と比較すると、仙台市は世界80位以内にランクインしており、世界の過半数の国よりも経済規模が大きい。江戸時代に東北地方最大の都市にして、日本で十指に入る人口を抱える都市となっていたが、それは、伊達氏62万石の藩内経済を背景としたものであり、藩外との経済交流を考えれば、酒田などの港湾都市の方に資本集積があったと考えられている。明治時代になると仙台は、明治政府の中央集権体制における東北地方の拠点都市として発展することとなった。戦後においては、特に1982年の東北新幹線開通後の発展や、1989年(平成元年)の政令指定都市化前後はめざましいものがあった。主な産業は、東北全体を商圏とする「卸売業」、仙台都市圏を中心に南東北全体に商圏を広げつつある「小売業」、および「サービス業」が中核をなす。中でも、「卸売・小売業」は仙台市だけで東北六県全体の年間販売額の40%近くを占める。また、東北地方の情報集散地としての役割も担っているため、「出版・印刷業」や「IT関連業種」などの情報関連産業も多く立地している。仙台市は、大企業の支店の存在に経済を支えられている側面が強く、また工業も発展していないため、経済関係者の間から「支店経済都市」「支社都市」と呼ばれている。このため、地場の産業を育成することが課題となっている。他の大都市同様、総生産額・従業者ともに全産業に占める第一次産業の割合は僅である(市内の農家数はおよそ5000戸)。しかし、米は仙台の主力農産物であり、かつ、ササニシキやひとめぼれなどのブランド米を産する土地柄、平野部の稲作地は都市化圧力から守られてきた。市内東部の平野や河川沿いの平地では土地改良事業が行われ、長方形型の大きな圃場が整備されて、大型農機による大規模稲作が行われている。これらの大規模圃場は、一部税金を用いて整備されているため、商業地や住宅地への転用が条例によって規制されている。このように、河川沿いの平地や東部の広大な平野部は、農地指定が解除されない限り、商業地や住宅地等に利用できないため、人口増に対応する住宅供給は、専ら仙台市都心部を取り巻く丘陵地の宅地造成によりなされた。宅地造成は、都心部に近い北西部を中心に進んだが、それでも供給不足に陥ったため、仙台市民の隣接市町への転出を促し、名取市・富谷市・利府町などの人口増に寄与した。仙台市当局は、政治的に平野部の農地を守ってきた。その政治判断により、平野部や河川沿いに水田が残り、夏には風の通り道になってヒートアイランド現象を軽減し、また、西部の山々とともに都心部を取り巻くグリーンベルトとして景観の保持にも寄与している。他方、仙台市の農地政策は「都心部以外は、平地は農地、丘陵地は住宅地」 という都市構造を助長した。そのため、住宅地が丘陵地ごとに島状分布し、都心と住宅地との間に坂道が多いため車社会を加速し、人口密度が低く、人口の割に職住が離れた非効率的都市圏を形成することになった。現在は、その非効率性はなくなっていないものの、農地指定の解除が徐々に進んで、「島」と「島」との間の平地が商業地や住宅地になりつつある。工業地区は主に仙台市東部地区に分布している。主な業種は「石油化学業」、次いで「印刷・出版業」、「電気機械・器具業」、「食品加工業」など。第二次世界大戦中の燃料不足のおりには、市内の中心部に近い八木山・大年寺山などで褐炭の掘削が盛んに行われた。仙台市の産業のうち、総生産額で8割、従業員数で7割を占める。業種別では「サービス業」の伸びが顕著である。仙台市は、南東北における物販・サービス業などの中心地となっている。一番町と仙台駅周辺の2つの中心部商業地の大きな集客力と、郊外ロードサイドショップの密集により、仙台市の小売商圏は、仙台市周辺市町村の域を越えて、山形県村山地方、福島県中通り北部・浜通り北部、および岩手県北上川流域南部まで広がっている。中心商業地以外では、仙台駅東口から楽天Koboスタジアム宮城に至る宮城野通り周辺の仙台駅東口や、泉中央・長町の副都心においても集積がみられる。現在の青葉通りの東端に仙台駅が設置(1887年)され、芭蕉の辻(江戸時代の仙台の中心商業地。国分町通り、および大町)に日本銀行仙台支店が設立(1941年)されたことにより、この2点の間の地域に金融機関が集中した。現在の仙台市の金融街は、青葉通り沿いの仙台駅西口前から晩翠通り辺り(東西軸)までを中心とし、途中交差する国分町通り沿い(南北軸)にも立地している。仙台市都心部には、一番町と仙台駅西口一帯の2つの極があるが、従来から、一番町は地元商店が強く、駅前は県外資本(主に東京)が強い。金融街の構成にも似た傾向があり、青葉通り沿いの仙台駅前から東二番丁通り交差点までの部分に都市銀行や有力地方銀行の本支店が集中立地し、それより西の一番町に近い青葉通り沿いに他の地銀や第二地銀の本支店が集中立地している。また、西東北を地盤とする銀行を傘下に持つ金融持株会社・フィデアホールディングスの本社は、仙台市に設けられている。仙台市には2006年(平成18年)2月27日にローソン(ローソンATM)、2006年(平成18年)3月1日にセブン-イレブンとイトーヨーカドー仙台泉店(セブン銀行)、2006年(平成18年)3月20日にファミリーマートとミニストップ(イーネット)に、コンビニATMが設置された。仙台市へのコンビニATMにより政令指定都市全てにコンビニATMが導入されることとなった。括弧内は預金残高(2004年度)と仙台市内店舗数七十七銀行が指定金融機関と地方公営企業出納取扱金融機関、仙台銀行・仙台農業協同組合が指定代理金融機関とされている。仙台市内第1店舗目は、ほぼ上述の金融街に設置されている(2016年に仙台市に進出した古川信用組合は、泉区泉中央に所在。また、仙南信用金庫は青葉区二日町に二日町支店が所在。かつての塩竈信用金庫仙台支店は青葉区宮町に所在していた)。2店舗目以降は、卸売り・流通企業が集中している卸町やその周辺の商業地を含めた宮城野地区(卸町、宮城野、原町、南小泉など)、県庁・市役所・国の出先機関などが集中する官庁街の二日町地区、仙台の副都心である泉中央や長町(富沢・泉崎)、その他、各金融機関の顧客層に合わせて、下町や郊外住宅地に店舗展開している。以下、支店店舗数と本社所在地を付記する。有人出張所は+で付記する(配列は統一金融機関コード順)。ただし、ローン専門拠点や中小企業向け相談拠点など、特記しているケースを除き、口座店でない店舗は含まない(口座店概念のないゆうちょ銀行は、直営店の数を示す)。銀行代理店として、他の金融機関窓口で取次等を行っている場合(郵便局の貯金窓口を含む)は、拠点数には含めないが、その旨別記する。野村信託銀行仙台支店があるが、これは野村證券仙台支店と取引をしている顧客に対する仮想口座勘定店であるため、実体店舗は存在しない。証券会社は、リテール部門の本拠地である「本店営業部」などの名称の店舗と「本社」が別立地のケースがいくつか存在するが、ここでは「本社」所在地を記載。なお、東洋証券のみ、泉区に店舗が所在(他は青葉区中央ないしは一番町に所在)。日本国内・日本国外の姉妹都市を各々締結順に掲載する。仙台市は、日本国外の姉妹都市と提携して、それぞれの都市を紹介するラッピングバスを運行している。都市外交としては、東京都の世界大都市外交や「アジア大都市ネットワーク21」が有名であるが、仙台市の場合は、人口約1000万人の東北地方、人口約570万人の南東北の拠点都市として、身の丈に合った北欧諸国との都市外交を進めている(北欧諸国:スウェーデン900万人、デンマーク540万人、フィンランド520万人、ノルウェー469万人など)。特にフィンランドとは、仙台市の仲介で東北福祉大学が福祉関連施設を仙台フィンランド健康福祉センター内に開設し、成果が出ている。しかし、研究開発・産業分野に限った都市外
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