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毛利秀就

毛利 秀就(もうり ひでなり)は、江戸時代初期の大名で、長州藩初代藩主。毛利輝元の長男。母は側室・児玉元良の娘清泰院(二の丸殿)。毛利就隆の兄。正室は結城秀康の娘・喜佐姫(徳川秀忠の養女・龍昌院)。子に松寿丸、綱広(四男)、土佐(越前松平光長正室)、竹(鷹司房輔室)ほか。文禄4年10月18日(1595年11月19日)、安芸広島で生まれる(異説あり・後述)。家系としては毛利元就のひ孫であるが、母方では児玉氏~湯原氏~尼子氏と繋がり、6代前は尼子経久である。輝元は長く実子に恵まれなかったため、従弟の毛利秀元を養嗣子に迎えていたが、秀就(初名は秀成とも)が生まれると、秀元には別家を立てさせている。慶長4年(1599年)、豊臣秀頼の近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服、豊臣姓を与えられ、偏諱を受けて秀就と名乗った。関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、毛利家は長門・周防37万石に減封され、また輝元に代わって秀就が当主となった。しかし幼年のため、幕府からは輝元と共同での藩主と見なされていたようで、政務は秀元が行なった。慶長13年(1608年)、大御所徳川家康の命によって家康の次男・結城秀康の娘の喜佐姫を正室に迎え、越前松平家の一門となり松平長門守を称した。慶長20年(1615年)の大坂の陣では徳川方として参戦している。元和9年(1623年)に父が正式に隠居、単独で藩主を務めるも、藩政は後見人の秀元・益田元祥・清水景治らが担当、秀就に権力はほとんどなかった。しかし次第に秀元と対立し、寛永8年(1631年)に秀元が後見人を辞任してからは不和が深刻になる。寛永11年(1634年)に秀元が独立を画策したり、江戸城普請を拒否したりしたことから、事態を憂慮した幕府の仲裁で寛永13年(1636年)に秀元と和睦、対立は終息した。秀元の後見人辞任後の寛永9年(1632年)は義兄弟の吉川広正が後見人となっているが、実際の藩政は重臣たちに任せているため、秀元の辞任で藩主を中心とした権力は確立したとされる。慶安4年(1651年)1月5日、57歳で死去し、跡を四男の綱広が継いだ。前述の通り通説では、秀就は文禄4年(1595年)に広島で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の宇部市小野地区)で出生したとの説がある。これは、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。この説によると、輝元の正室・南の方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる。また、出生後の処置について小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている。大大名の子として苦労せずに育った秀就の若い頃の素行は悪く、毎晩夜遅くまで遊んでいたために昼間は寝不足状態で、書類の決裁などの政務もまともに行えない状態であった。また、初めて領国入りした時にはあまりにも威圧的な態度を取ったために、秀就が来ると聞くと百姓たちは山へ逃げてしまうほどだった。家臣たちや秀元が諌めても行動が一向に改まらないため、父の輝元は秀就を叱ったがその効果はなく、徳川家康が病に倒れた時に江戸下屋敷で遊び呆け、その行動が駿府の町人の噂にまでなっていた。一方、秀元はかねてより声望が高く、3代将軍徳川家光の御伽衆として信頼されるほどであり、この声望の差が後に見るような秀就と秀元の軋轢を深刻にする要因の一つにもなっている。また、領国が越前松平家の松平忠直が配流された豊後国に近いにもかからず、娘を忠直の嫡子松平光長に嫁がせたことは評判が悪く、「不調法な縁談」とされたが、それでも「毛利殿は生まれつき不調法だから構わない」という理由で許可された(つまり幕閣にも軽く扱われていた)、と当時小倉藩主だった細川忠利は父の細川忠興に書き送っている。父とは対照的に、元養兄にして後見人でもあった秀元や、弟の毛利就隆、姻族の福井藩の越前松平家とは軋轢があった。秀元は成人してもなお秀就を軽んじ、将軍の御伽衆であることをかさに着て、秀就との間にしばしば深刻な確執を引き起こし、幕府の仲裁も受けている。また秀元が息子の光広の正室に秀就の娘を所望したが、秀就が断ったために仲が険悪になったとされる。他方で、徳山藩開祖の就隆は同母弟であるが、萩藩がたびたび手伝普請を命じられたために、就隆の徳山藩に援助を求めたものの、徳山藩の財政難を理由に断わられたので就隆と険悪となり、これが宗藩の萩藩と徳山藩との軋轢の初めとなる。越前家は以後、毛利家の後見的位置にあったが、かなりの緊張関係が存在したようで、元禄12年(1699年)には毛利元重の処遇をめぐって越前家と毛利家が衝突寸前になる事件が起こっている。

出典:wikipedia

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