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騎馬民族征服王朝説

騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説。騎馬民族日本征服論(きばみんぞくにほんせいふくろん)ともいう。東洋史学者の江上波夫が考古学的発掘の成果と『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承、さらに東アジア史の大勢、この3つを総合的に検証した結果、提唱した考古学上の仮説である。この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げた。手塚治虫が『火の鳥 黎明編』でモチーフにし、一般の人々や一部のマスメディアなどで広く支持を集めたが、学会では多くの疑問も出され、定説には至らなかった。支持する専門家は少数派にとどまっているとされ、今日ではほとんど否定されているともされる。これらこの説を否定する立場からは、社会的な変化を説明するのに、騎馬民族征服王朝説はある意味で便利であり、騎馬民族の征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化の契機は十分に説明が可能であると指摘されている。江上波夫は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に、満洲の松花江流域の平原にいた扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。すなわち、大陸東北部に半農の騎馬民族が発生したが、その内、南下した一部がいわゆる高句麗となり、さらにその一部が「夫余」の姓を名乗りつつ朝鮮半島南部に「辰国」を建て、またさらにその一部が百済として現地に残るが、一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部(江上は、天孫降臨神話の日向を筑紫とみる)を征服し、任那と併せて「倭韓連合王国」的な国家を形作ったという。さらにその勢力は、5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出し、そこで数代勢威をふるい巨大古墳を造営し、その権威をもって、大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立したのであるとする。そして、唐の朝鮮半島南部への進出によって(白村江の戦い)、日本がその出発点たる南部朝鮮保有を断念するに及んで、大和朝廷は、日本の土地の古来からの伝統的王朝たるかのように主張し、そのように記紀を編纂したものであるとする考古学説が、江上の騎馬民族征服王朝説の概要である。ここで注意するべきは、江上は、元寇のように大陸騎馬民族が一気に九州または日本を征服したと見ているわけではなく、長年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、情勢の変化により逼塞したことにより、長期間かけて日本列島を征服支配したとしているのであり、大陸騎馬民族が一気呵成に日本列島を征服したことを前提としてそれを否定するものは、江上への批判としては適切でない。そして、江上は、騎馬民族が農耕民族を征服支配した場合には、徐々に農耕民族に同化するものとしている。それが故に、江上は、大和朝廷を騎馬民族によって成立したと見ながら、日本の民族の形成は弥生時代にまで遡ると捉えていると思われるのである。このような江上の学説は、遺跡遺物などによる文化習俗と文献を総合して主張される。文化習俗面では、4世紀後半から7世紀後半ころの後期古墳文化におけるそれは北方的、武人的、軍事的であり、弥生時代の南方的、農民的、平和的なものの延長であった古墳文化と"断絶"があることを根拠とする。文献的な根拠は、記紀や新旧唐書など多岐にわたる。以下、主な文化習俗的根拠及び文献的根拠を紹介する。(断定的に記述するが、古墳時代の区切り方なども含めて江上の学説であり、学会において反対があるものもあることを承知されたい)などが掲げられる。反論としては、などがあげられる。日本には弥生時代後期から古墳時代にかけて倭国と大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が穏やか流入したが、少なくとも大規模かつ急激に王朝が交代するような事態は無かったとしている。騎馬民族征服王朝説は、古墳時代中葉の変革を、新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって説明しようとしたものであり、魏志倭人伝が第三十巻に配される三国史烏丸・鮮卑・東夷伝が記録する、4世紀から5世紀にかけての北方騎馬民族の満蒙から朝鮮半島にわたる農耕地帯への南下、農耕民との混血、既存の文化との混合による建国という、東北アジア世界における大きな民族移動の動きをふまえて構想されたものである。しかし、江上の考古学説の一部である、朝鮮南部に日本の王朝の血筋を求める説に関しては根拠が薄いことが指摘されている。白村江の敗戦で朝鮮半島から完全に絶縁するに及んで、「朝廷は日本古来の伝統的王朝たることを主張し、その意図をもって記紀の編纂がなされた」という江上の主張も踏まえる必要がある。日本列島における古墳時代中葉の諸変化は、急激な変化ではなく、きわめて漸進的なものである。これに対し、大陸の三国時代の終了から南北朝時代の開始の時期の東アジアの民族移動に付随し、5世紀に大量の騎馬文化を持つ渡来人の移住が行われ、騎馬文化が入って河内王朝となったという、水野祐の三王朝交替説(1952年)のような見解もある。すなわち、実際、水野は自己の王朝交替説を「穏健な騎馬民族説」としており、上田正昭(1973年)も「応神・仁徳両天皇の代を新王朝とする見解は、ある意味では江上説を承認するもの」としており、これらは、古墳時代における前期・中期の間に急激な変化があったことを前提としている。427年、高句麗では、長寿王の時代に国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)にあった都城を平壌城(現在は北朝鮮の首都)に遷し、朝鮮半島へ進出した。ただし、広開土王碑文にみられるように長寿王の父にあたる広開土王を顕彰する碑文や王墓は国内城につくられた。騎馬民族征服王朝説を否定する見解からは、5世紀以降、ヤマトの朝廷が大陸から新しい文物や文化を受容したのは、こうした高句麗の南下政策などといった国際情勢に対応するため、朝鮮半島に出兵し、朝鮮半島南部の鉄資源の確保を目指して、意識的、選択的になされた変化だととらえられる。神話に関しては、むしろ、大林太良などは、日本の神話伝説をベトナムや朝鮮半島、ミャンマー、スリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘しており、また「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていないことはよく知られている。近年盛んな遺伝子の研究からは、ユーラシア・ステップのアルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体ハプログループC-M86が東日本ではゼロであるが、九州と徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。

出典:wikipedia

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