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加茂岩倉遺跡

加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)は、島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡。国の史跡に指定されている(1999年1月14日)。遺跡は1996年に加茂町(現雲南市)岩倉の丘における農道建設工事中に発見された。重機による掘削中に、突然異様な音がしたため、直ちに重機を止めた運転者が「誰がポリバケツをこんなところに埋めたのか」と考えつつ近づいたところポリバケツではなく銅鐸を発見した。当時加茂町では、町長の速水雄一(後に雲南市長)のもとで学問と教育の里というテーマで町おこしを行っており、町役場にただちに遺跡発見の連絡が入った。1996年より1997年の2年間にわたり、加茂町教育委員会と島根県教育委員会により発掘調査が行われた。発掘の結果、一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定された。発見時に重機が直ちに停止されたことも幸いし当初の埋納状態がよく残されており、配置などの詳細な学術情報が研究者にもたらされた。また、1997年度の調査では、銅鐸が埋められていた坑から3メートル離れた場所に別の坑も発見されたが、こちらからは遺物が全く出土しなかった。遺跡は先に発見され358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。加茂岩倉遺跡の銅鐸埋納坑からは39口の銅鐸が出土したが、これは1つの遺跡からの銅鐸の出土例としては最多で、古代出雲の歴史に対する見直しが迫られることとなっている。大きさの点では高さ45センチメートル前後の中型鐸20口と30センチメートル前後の小型鐸19口に分類され、形式においては弥生Ⅱ期からⅢ期の外縁付1式が19口、外縁付紐2式が9口、外縁付紐2式から扁平紐1式が2口、扁平紐2式が6口、扁平紐2式から突線紐1式が3口となっている。そのうち13組26口は中型鐸の中に小型鐸が納められた「入れ子」状態で出土したことが確認されている。銅鐸がこのような入れ子状態で出土した例は極めて少なく、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査に拠れば、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されている。表面からは朱が検出され、線刻で文様が表現され、袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸が30口、流水文銅鐸が9口ある。絵画の描かれた銅鐸は7口あり、シカやカメ(ウミガメ)、トンボや四足獣などの動物が描かれている。銅鐸の中には、顔・トンボ・鹿・猪・スッポンなど絵を描いた絵画銅鐸が何個か含まれている。銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。出土品の一部(外縁付1式銅鐸)には近畿地方で製作されたと推定されるものもあり、十二号銅鐸は大阪府東大阪市鬼虎川遺跡出土鋳型と共通する特徴をもつ。外縁付紐2式から扁平紐1式にかけての銅鐸は、流水文銅鐸9口、袈裟懸文銅鐸2口。この時期の流水文文様は、畿内南部の工人集団製作の横型流水文と畿内北部の工人集団製作の縦型流水文様の2系列があるが、本遺跡出土の流水文銅鐸9口は、全て横型流水文銅鐸であるので、畿内の工人集団が製作したものと考えられる。扁平紐式2式から突線紐1式にかけての9個の銅鐸は、3群から成る。そのうちの四区袈裟懸襷文銅鐸3口は同一工房の作品。もう一群の2口は、互いに同笵。これら二群に比して、六区袈裟懸襷文銅鐸6口も同一工房で造られていると推定。つまり、少数の工房で製作された銅鐸と推測できる。絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられており、一部は他地域との同笵関係も認められている。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様特定できていない。本遺跡で出土した銅鐸には、同じ鋳型で製作された銅鐸も各地で確認されていることから、各出土地との関連を含めた今後の研究が待たれる。

出典:wikipedia

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