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北の洋昇

北の洋 昇(きたのなだ のぼる、1923年2月1日 - 2002年1月8日)は、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)出身で、1940年代後半から1960年代にかけて活躍した大相撲力士である。本名は緒方 昇(おがた のぼる)。1923年2月1日に、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)で料理屋を営む家に二男として生まれた。幼少期から地元では有名な腕白だったが、小学4年生の時に実兄が事故で没したことでショックを受け、それ以降は腕白な性格から内気な性格へ変わっていった。実家が地元で人気の料理屋だったことから、厳しい父親に毎日家の手伝いをさせられていた。1938年の暮れのある日、自宅へ宿泊した旭川の馬飼いが緒方少年の大きな体格を見い出し、その人物が旭川幸之丞とも親しかったことで立浪部屋への入門を勧めたが、緒方少年は相撲好きだったものの「他の部屋に入って双葉山定次に勝つ相撲取りになりたい」と考えて出羽海部屋への入門を希望していた。当時の双葉山定次は、同年に玉錦三右エ門が現役死亡したことで角界を代表する大横綱となっており、出羽海部屋では一門ぐるみで「打倒双葉」を合言葉に、どのように破るかで連日猛稽古と研究に明け暮れていた時期だった。馬飼いはこの姿勢に一度は引き上げたものの、1939年の春に再び訪ねて来て熱心に説得すると、一家の稼ぎ手を失うことを心配した母親から反対されたものの、立浪部屋への入門が決定した。立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。入門時の体重は71kgだったが、入門直前の緊張から3kgも減ってしまった。これでは新弟子検査で合格しないと感じた緒方少年は、検査直前に飯や水を口にして増量を図るも1.5kg不足してしまった。検査を担当した若者頭が鳴戸に目配せして合格を頼んだが聞き入れてもらえず、さらには力士を諦めて床山になることを勧められた。それでも力士になる夢を諦めなかった緒方少年は、翌場所も新弟子検査を受験して見事に合格し、1940年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は郷里・北海道に因んで「北ノ海」にする予定だったが、同名の者が前相撲の初日にいたことが判り、「北ノ洋」に変更した。入門後は第二次世界大戦が激化したが、幸いにも兵役に取られることが無いまま着実に昇進し、1948年10月場所に新十両昇進を果たした。初めは軽量ながら立ち合いに頭で当たり、四つに組んでから投げを中心に俊敏な変化を交える半端な相撲だったが、体重が増えて着実に力を付けていくと左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る取り口に変わった。この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。新入幕が初土俵から10年経過していたことで出世がゆっくりだったが、前述のように体重の重さと力量を生かして相手を土俵際へ追い詰める取り口で幕内に長く定着し、土俵際での逆転の網打ち・うっちゃりで物言いが付く取組も多かった。それでも左手を着いてから添えた右手を横一文字に引く颯爽とした仕切りは、相手に丁寧に合わせることから待ったをほとんどせず、土俵態度として立派だったという。1957年11月場所において腰痛と左足首関節を捻挫して以降は、稽古での申し合いを減らした上で、通勤ラッシュで混雑する平日朝8時頃の両国駅の階段を廻し姿で昇り降りするなど、足の鍛錬を増やしていった。本場所では負け越す回数が増えていくが、怪我をしたならば北の洋なりの回復方法を探って、少しでも長く幕内で活躍しようとする姿勢に、驚く乗客もいたが激励の声も多かった。1962年3月場所で5勝10敗と大きく負け越し、来場所の十両陥落が決定的になったところで現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退時は39歳で、両国駅での毎朝の自主トレーニングが丈夫で長持ちするということを実証した形となった。年寄・武隈としては日本相撲協会の理事や監事を歴任し、春日野理事長の体制を支える重要な役割を担った。弟弟子である安念山治からも全幅の信頼をおかれ、1969年に先代立浪が亡くなると、年寄・追手風を襲名していた安念山治が「立浪」を継承する際には「武隈親方がいれば大丈夫だ」と言われるほどだった。在職中には日本テレビの相撲放送解説を務めていたが、1987年の年末に横綱・双羽黒光司が立浪とちゃんこの味付けを巡って衝突し、女将を突き飛ばして部屋を飛び出す騒動が発生した(双羽黒廃業騒動)。武隈は双羽黒の居場所を突き止め、結果としてそのまま廃業(破門)となったことで失敗に終わったものの、双羽黒に対して部屋に戻って謝罪するように説得に当たるなど、騒動解決に奔走した。1988年1月場所を最後に停年退職し、娘婿の黒姫山秀男に年寄・武隈の年寄名跡を譲った。自身は本名の「緒方 昇」としてNHKの相撲解説を務めたほか、タレントとしてNHK総合テレビのクイズ番組「クイズ日本人の質問」に出羽錦忠雄と共に解答者(大相撲チーム)として準レギュラー出演していたほか、1996年には映画「スーパーの女」(伊丹十三監督)に出演したことが話題となった。日本放送協会の相撲解説では現役時の四股名で務めるのが慣例だが(現役では北の富士勝昭・舞の海秀平)、。2000年1月場所を最後に勇退した後も新聞などで相撲の評論活動を行っていたが、2001年の春に脳梗塞で突然倒れて療養生活を送る。そして、2002年1月8日に栃木県内の病院で死去、。墓所は旧・両國國技館が開館するまで相撲が行われていた、両国の回向院にある。白い稲妻というあだ名は、北の洋の没後に孫の羽黒灘が逮捕された際に、やくみつるが描いた4コマに登場している。1957年11月場所に於いて関脇初昇進を果たしたが、34歳8ヵ月(※番付発表時)での新関脇は、三賞制定以後では当時の最年長記録であった(その後、2014年9月場所で豪風が更新している)。                        

出典:wikipedia

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