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陳 (南朝)

陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。梁の重臣であった陳霸先は侯景の乱で王僧弁と共に鎮圧の功績を立てたが、後に王僧弁との対立が表面化し555年9月に陳霸先は王僧弁を建康に殺害し、蕭方智を敬帝として即位させた。陳霸先は梁の実権を掌握し、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、ここに梁は滅亡した。陳霸先は武帝として即位し、永定と建元した。しかしこの即位前から梁は後梁(西梁)と分裂しており、その西梁は江陵を拠点として独自の政権を継続させていた。さらに梁の残党も郢州 (湖北省)を拠点として梁の復興をはかっていた(南梁)。こうした事情から、陳の領土は元の梁の全てを継承したわけではなく非常に弱小な国家であった。国名の陳は陳霸先が梁から陳王に封ぜられたことに由来するが、国名と国姓が一致する珍しいケースとなった。559年に武帝は崩御し、第2代皇帝には甥の文帝が即位した。文帝は北斉の侵攻を撃退し、王僧弁の勢力を再結集していた長江中流の湘州の王琳が蕭荘(永嘉王)を皇帝としていた南梁を滅亡させ、さらに臨川の周迪・豫章の熊曇朗・東陽の留異・建安の陳宝応など国内各地における反乱を鎮圧し、国政に尽力して内治を安定させ、減税と節倹に努めて人心を掌握して陳を安定させた。566年に文帝は崩御し、長男で皇太子だった陳伯宗が即位するが、568年に叔父の陳頊に廃され、第4代皇帝には陳頊が宣帝として即位した。宣帝は節倹と減税など民政に励む一方で軍事力を増強し、北斉の弱体化に乗じてこれを攻め江北の地を奪取した。しかし578年に北斉を滅ぼした北周に敗れ、江北を奪い返されてしまった。582年に宣帝は崩御し、皇太子の陳叔宝が即位した。だがこの皇帝は相当な暗君で、貴妃張麗華と共に享楽に溺れ、沈客卿・施文慶ら奸臣を重用して国政を乱し、遊興にふけって政務を顧みなかった。このため陳の国力は衰退の一途をたどり、588年から北周を滅ぼして成立していた隋の文帝が50万の大軍を南下させると、陳は抵抗しきれずに589年に陳叔宝は降伏して陳は滅亡した。ここに400年に及ぶ魏晋南北朝時代が終結し、大陸は隋に支配されることになった。なお、陳叔宝は暗君だった事が逆に幸いして文帝に警戒されず生かされる事になり、陳の皇族や官僚、おびただしい捕獲品と共に長安に送られた。陳は陳叔宝の悪政が結果的に滅亡の一因を成したが、それ以外ではやはり国力の弱小が挙げられる。陳は建国当時既に四川や襄陽、江陵など要地を失っていた。また陳は長江という天然の要害を利用して存続していたが、四川や襄陽を失っていた事は長江上流の地から攻撃を受けた際には脆弱な防備体制しか無いという事でしかなく、隋の文帝にこのアキレス腱を見事に衝かれて北方より収穫の早い南方の弱点をついて文帝は常に収穫期に戦争を起こして陳の国力を疲弊させ、滅亡時にはこのためにほとんど抵抗力は残らなかった。梁末期の侯景の乱により建康など江南の主要都市の大半は戦火により荒廃したが、これにより華北から亡命して江南に成立していた貴族の上部構造は完全に壊滅した。またこのような混乱期に江南では各地で群雄が割拠したため、陳霸先は彼らと婚姻関係や親類関係を結んで懐柔策に出ている。姓が同じというだけで陳宝応を皇族と認定してその子女に大小の爵位を与える恩典まで授けたため、陳の皇帝権力は非常に弱かった。国力は脆弱だったが、後主の時代には文化が爛熟し、六朝文化の粋として隋や唐の文化にも影響を与えた。ただし陳が滅亡した際、隋により首都建康の建造物や文化の象徴たるものは悉く破壊された。

出典:wikipedia

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