海防論(かいぼうろん)は江戸時代後期、諸外国の日本への進出に対して生じた国防論議。海防論が論じられる発端となったのは18世紀後半からである。北海道厚岸に来たロシア人パベル・レベデフ=ラストチキンが松前藩に交易を求めた。このロシアの接近に対し、蝦夷の処理をどうするかで始まった。工藤兵助、林子平、本多利明、佐藤信淵らが唱えたもので、ロシアの南下を防ぐ為に蝦夷地に進出しその経営に着手すべきと説いた。中でも林子平は海防の具体策についても論じており、それはのちの国防策の指針となった。また、蒲生君平は主戦論を主張し、水戸派は激しい攘夷論を唱えた。中井竹山、中井履軒らが唱えたもので、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地を開発経営することはいたずらに国力を消耗するだけであると説いた。田沼意次の蝦夷開発計画を中止させた松平定信は、はじめは消極論者だった。しかし、ロシアのみならず諸外国船の進出が激しくなりとりわけラクスマン、レザノフの来航、フェートン号事件などによって江戸幕府全体が積極論に傾き始め、1802年には蝦夷奉行(のちに箱館奉行、松前奉行)が設置された。また世論も蝦夷地だけの問題とせず、国をあげて海防問題が論議されるようになった。これらの議論はとかく机上の空論になりがちであったが、ペリーやハリスの来航により諸外国との関係が「不平等条約締結」という具体的な政治上の問題にまで発展すると蝦夷地の経営から出発した単純な海防論も、その性格の変貌を余儀なくされ、将軍継嗣などの国内問題と絡んで、ますます複雑になり幕末に及んだ。
出典:wikipedia
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