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U.S.M1カービン

M1カービン()は、1941年にアメリカ合衆国で開発された自動小銃である。代表的な自動式カービンの1つ。拳銃よりも射程や威力に優れた補助火器として、後方要員をはじめとする歩兵銃を携行しない兵士に対して配備された。アメリカ軍ではベトナム戦争頃まで使用されたほか、第二次世界大戦中から戦後にかけてアメリカの友好国に多数供給された。また、1960年代頃からは警察用・民生用ライフルとしても普及した。1930年代のアメリカ陸軍では、飛行場・前線基地・占領地の警備などを主とする後方部隊用の警備用火器として、拳銃や小銃・短機関銃が使用されていたが、小銃では重く取り回しが容易ではないこと、短機関銃は重い上に射程が短く、拳銃は軽便だが射程が短く威力も低い上に、安全で正確な取り扱いに熟練するのに時間がかかるという問題を抱えていた。そのため、警備用火器、また、下士官用の強力な自衛用火器として、軽量で長時間持ち歩いても疲れず、小銃と短機関銃の中間に位置するクラスの銃が求められるようになった。また、陸軍では第一次世界大戦の戦訓のもと、以前から拳銃より射程の長い補助火器が求められていたものの、予算面の都合などもあって長らく計画の承認を得られないままでいた。1938年、陸軍歩兵総監(Chief of Infantry)だったジョージ・アーサー・リンチ少将(George Arthur Lynch)から陸軍武器科に対し、支援兵科向けの「軽小銃」(light rifle)の開発が提案された。この提案も当初は受け入れられなかったが、1939年に第二次世界大戦が勃発したことで状況が変わり、1940年6月15日に再提案された後に陸軍長官の承認を受けることとなった。10月1日、武器科は多数の銃器メーカーや銃器設計者に対して新型軽小銃の設計要件として以下の事項を示した。5月に行われた第1回審査では、複雑な構造を有する銃が排除され、ジョン・ガーランドの設計案が高く評価された。しかし、機関部の右上45度の位置に弾倉口を設けたレイアウトが問題視され、この点を修正し再設計された新型銃は元々の設計案よりも信頼性が劣ると判断された。結局、第1回審査に提出された設計案はいずれも採用されなかった。ウィンチェスター社は第1回審査に設計案を提出しなかったメーカーの1つである。当時、同社は.30-06スプリングフィールド弾(M2普通弾)を用いる新型歩兵銃の設計を行っており、これに集中するため軽小銃計画への参加は見送られていた。しかし、さらなる設計案を求めていた武器科はウィンチェスター社に接触し、新型歩兵銃を軽小銃計画の要件に沿って再設計するように求めたのである。新型歩兵銃の前身は、ジョナサン・エドモンド・"エド"・ブローニング技師(Jonathan Edmund "Ed" Browning, ジョン・ブローニングの異母弟)がM1ガーランドの後継装備となることを想定して設計したG30小銃である。ウィンチェスター社は1938年11月30日にG30の設計案を購入し、翌年3月にはブローニングを雇用したが、わずか2ヶ月後の5月16日に彼は死去してしまう。その後、G30小銃とブローニングの設計室をそのまま引き継いだのが技師である。ガスシステムを改良したG30Mが1940年3月から4月頃に完成し、海兵隊にてM1ガーランドおよびジョンソン小銃との比較が行われたものの、評価は3丁中最下位だった。ただし、この審査では最終的な結論が示されなかったため、以後も改良が続けられた。そして武器科研究開発部長ルネ・スタッドラー大佐(René Studler)からの打診を受けた時点で、7.5ポンドまで軽量化を図ったG30Rが設計されていた。ウィンチェスター社は2度目の審査に向けて軽小銃の設計を開始した。スタッドラー大佐の打診から13日後、G30Rを原型とする最初の試作銃が完成した。ただし、開発主任エドウィン・パグスレー(Edwin Pugsley)との衝突があったため、ウィリアムズはこの時点の試作銃開発に参加していなかった。試作銃はおおむねブローニングの設計を引き継いでいたが、M1ガーランドと同様の回転ボルト閉鎖機構、そしてウィリアムズが考案したショートストロークピストン式(玉突き式)を取り入れていた。1941年8月9日、パグスレーの許可を得たウィリアムズがスタッドラー大佐のもとアバディーン性能試験場にて行われる試作銃の予備試験に参加する。この時の良好な試験結果を受けて軽小銃としての開発継続が決まり、9月15日までに最終的な設計案を提出することとされた。そして改良のために設計チームが再編された際、ウィリアムズは開発主任となる。しかし、ある技師がショートストロークピストンのアイデアを盗もうとしていると考えたウィリアムズが周囲と対立したため、パグスレーが呼び戻され、彼は再びチームを外れることとなった。9月12日、次の試作銃が完成するが、未解決の問題が残されていた。パグスレーから相談を受けたウィリアムズが対策にあたり、無事15日の試験に提出された。1941年9月30日、ウィンチェスター製軽小銃は制式名称United States Carbine, Caliber .30, M1として陸軍に採用されることとなった。また、海軍および海兵隊でも、真珠湾攻撃の直前に350,000丁分の契約を結んでいる。なお、ウィリアムズはかつてノースカロライナ州の刑務所に殺人容疑で服役していた。このときひそかに考案していた自動カービン銃の設計を行い、のちに刑務所所長の許可を得てカービン銃の試作から試射まで行っている。そのためウィリアムズは「刑務所でカービン銃を作った男、カービン・ウィリアムズ」と新聞メディアに取り上げられ、後にこの事が話題になり、再審で無罪を勝ち取り釈放されている。ウィリアムズは釈放後にウィンチェスター社へ入社し、M1カービンの開発に携わる事になった。M1カービンの特徴として、ボルトの閉鎖機構はM1ガーランドと同じく回転ボルト閉鎖を採用していたが、ガス圧でボルトを解放する機構にはショートストロークピストン式(玉突き式)を採用していた(この後、ショートストロークピストンは多くのアサルトライフルの設計に取り入れられ、AR-18、G36といったモデルに採用されている)。M1カービンの使用弾薬である.30カービン弾は、当時の標準的小銃弾に比してはるかに腔圧が低いという特性を持っていたため、これを活かした非常に短いガスピストンが用いられている。この小さなガスピストンは多くの弾数を発射する過程で徐々に変形・腐食して行くため、専用のレンチを用いて交換する事が前提で設計されており、年代物のM1カービンを使用する際にはガスピストンの交換が必要な場合があるので注意が必要である。また.30カービン弾には当時の軍用銃としては世界で初めて低腐食性のプライマー(雷管)が採用され、高温・高圧のガスにさらされるガスピストン(更に耐食性を高めるため後期にはステンレス製となった)や銃身内部を始めとする各部の腐食を減らし、耐用年数を大幅に増やす事に成功した。当初、M1カービンはフルオート射撃を可能とする設計だったが、全長の短さと軽量さからフルオート射撃時のコントロールが難しく、量産型ではセミオート射撃(半自動)のみとなった。製造が始まった後、ボルト、バレルバンド、銃床、安全装置、マガジンキャッチ、照門の設計が変更された。また、実戦経験を踏まえてフラッシュハイダー、グレネードランチャー、着剣装置が追加された。1945年以降に新仕様での新造が始められ、平行して初期生産型の改装も行われた。M8グレネードランチャーを装着することで、22mmライフルグレネードを発射することができる。これはM1ガーランド用のM7グレネードランチャーをもとにしたソケット型のアダプターで、銃剣固定用の金具に固定していた。この時期にアメリカ軍が採用していたライフルグレネードは、いずれも空砲発射式であったので、これを発射するときには1発だけ空砲を装填する必要があった。一方、威力の不足はM1/M2カービンの欠点としてしばしば指摘される。本来、M1カービンは.45口径拳銃などの代替品となることが想定されており、開発時にも精度や射程、威力は歩兵銃ほど重視されていなかった。しかし、普及につれて歩兵銃と同等の運用が行われるようになったことで、これらが新たな欠点として注目されることとなったのである。朝鮮戦争における長津湖の戦いの後にジョセフ・フィッシャー海兵中尉(Joseph Fisher)が報告したところによれば、25ヤードの距離で中国兵の胸を撃ったのに足止めできなかったという。また、彼の部下にも同様の経験をした者が多数あり、3発ないし4発続けて命中させてさえ足止めできなかったと語る者もいたとしている。さらに朝鮮半島の厳しい気象条件下では故障や不良が相次ぎ、信頼性も疑われるようになっていた。このため、朝鮮戦争時のM1/M2カービンの印象は非常に悪く、当時の標準的な歩兵火器の中では最も嫌われていた。ただし、威力不足の指摘に関しては、単に弾が命中していなかっただけに過ぎないとも言われている。採用からおよそ2ヶ月後、アメリカは真珠湾攻撃によって第二次世界大戦に参戦した。1942年5月12日、空挺部隊からの要求を受けた陸軍武器科の命令に基づき開発されたM1A1カービンが採用された。これは折畳式のワイヤー製銃床を取り付け全長を短縮したモデルで、同年11月から生産が始まった1942年6月、M1カービンの生産が始まった。製造契約を結んだ主なメーカーとしては、ゼネラルモーターズ社国内製造部(Inland Manufacturing Division)、ウィンチェスター社、社、社、社(Irwin-Pedersen Arms)、クオリティ・ハードウェア&マシン社(Quality Hardware & Machine)、ナショナル・ポスタル・メーター社(National Postal Meter)、スタンダード・プロダクツ社(Standard Products)、GM社(Saginaw Steering Gear Division)、IBM社があった。この際にウィンチェスター社はM1カービンをロイヤリティフリーと位置づけた上で各メーカーによる製造および契約を認め、また同時にウィンチェスター社に対して開発費用として$886,000がアメリカ政府から支払われた。過剰生産や不足を避けるため、下請け業者による各部品の製造およびメーカーへの割当は、政府が設置したカービン産業調整委員会(Carbine Industry Integration Committee)によって指示された。ヨーロッパ戦線にて最初の配備が行われた。当初は後方要員向けの装備とされていたが、間もなく前線の士官や下士官にも愛用されるようになった。1944年5月、セレクティブ・ファイア機能をM1カービンに追加するための研究が始まった。武器科が1940年に示した要件に含まれていたこともあり、元々はウィンチェスター社でも新型小銃にセレクティブ・ファイア機能を設けることを想定していたが、開発の段階でセミオート射撃のみ可能な半自動小銃に方針を転換していた。しかし、小銃弾というよりは拳銃弾に近い.30カービン弾はストッピングパワーに欠けるとされ、前線ではフルオート射撃機能の追加が求められるようになっていたのである。ウィンチェスター社はスプリングフィールド造兵廠と共に他の問題の修正も含めた改良を進めていたが、その後GM社国内製造部に所属するフレデリック・サンプソン(Fredrick Sampson)とポール・ハーミッシュ(Paul Hamish)が、既成のM1カービンに組み込むことで簡単にフルオート機能を追加できる部品セットを開発した。部品セットにはT17カービンキット(Kit, Carbine, T17)、T17を組み込んだM1カービンにはT4カービンという名称がそれぞれ与えられた。前線での性能試験結果は良好で、10月26日にT4はU.S. Carbine, Caliber .30, M2として制式採用された。第二次世界大戦中にはほとんど配備されなかったが、1945年4月に始まった沖縄戦では相当数が使用された。T17と並行して30連発の大型弾倉の開発も進められており、この弾倉は湾曲した形状から「バナナクリップ」(banana clip)と通称された。その後の改良でボルトストップ機能も追加された。以後、支給されていなかったM1カービンの在庫は順次M2カービンへと改良されることとなった。1943年末、T120狙撃眼鏡(Sniperscope, T120)が開発された。これは1930年代から行われてきた実験を踏まえて設計された赤外線照射式の暗視装置であり、アメリカにおける最初の実用的な暗視照準器である。夜間照準可能距離は400フィートほどだった。M2カービンにT120を取り付けるレールとラッパ型消炎器を追加したものがT3カービンで、それぞれ後にM1狙撃眼鏡とM3カービンという制式名称が与えられた。第二次世界大戦中はほとんど配備されなかったが、沖縄戦には投入されている。アメリカ国内ではウィンチェスターをはじめとする複数の企業によって生産が行われた。正確な記録は残されていないものの、主要な10企業によって1942年6月から1945年8月までの期間に少なくとも各モデル合わせて6,117,827丁が製造された。1945年8月、終戦によってM1カービンの製造は終了した。各地に展開したアメリカ軍部隊の復員に伴い、M1カービンを含む多数の兵器は一時回収され、オーバーホールを受けることとなった。ほとんどのM1カービンは分解の後にM2カービンと同等の後期型の部品(着剣装置付きのバレルバンド、30発弾倉用マガジンキャッチ、調整可能な照門など)を組み込まれ、一部はセレクティブ・ファイア機能も追加された。1950年に勃発した朝鮮戦争でもM2カービンは使用されたが、前線の部隊、とりわけ海兵隊からは酷評されることとなった。フルオート機能を追加したために構造が複雑化し、朝鮮半島の過酷な自然環境の中で動作不良が相次いだためである。また、共に配備されていたM1ガーランドがほとんど不良を起こさなかったことも、前線の将兵がM2カービンの信頼性を疑う要因の1つとなった。750発/分という高すぎる発射速度も制御が非常に難しいとされたほか、弾倉が開口部から錆びやすく、その欠片が弾薬と共に薬室へと入り込むことが多かったという。威力不足の指摘も多数あり、ある海兵隊員は「25ヤードの距離で中国兵の胸を撃ったのに足止めできなかった」と報告している。1957年、アメリカ軍における標準的な歩兵用小火器、すなわちM1ガーランド、M1/M2カービン、M3/M3A1短機関銃、M1918自動銃の全てを更新する銃器とされたM14小銃が採用される。翌1958年までの間に武器科によってM1カービンは予備装備と指定され、大部分は部品ないし屑鉄として民間企業に売却された。ただし、その後もアメリカ軍における正式な退役の宣言はしばらく行われず、M1カービンはM14やM16小銃に更新されつつもベトナム戦争を通じて使用された。空軍の基地警備隊では少なくとも1970年代を通じて使用されたという。1960年代初頭には民間射撃プログラム()の一環としておよそ250,000丁が民間に放出された。同時期には民間企業でも交換部品やコピー銃の製造が始まり、民生用・警察用ライフルとしての普及が進んでいくこととなる。第二次世界大戦中、レンドリース法に基づく給与、あるいは戦略諜報局(OSS)やイギリス特殊作戦執行部(SOE)による現地抵抗運動への支援工作などを通じて、130,000丁以上のM1カービンが外国軍へと供給された。また、終戦後には300万丁以上が50カ国以上の友好国に給与ないし売却されている。1945年10月、連合軍軍政下ドイツのアメリカ占領区域にて軍政当局が警察組織の再建を開始した。11月6日にが承認したドイツ警察再武装に関する命令では、警察官の武装を拳銃と警棒に制限していたが、田舎や辺境の警察に限り例外としてカービン銃の配備を認めるとしていた。また、警察に配備する銃火器はドイツの戦力を制御するために外国製でなければならないとされていた。1946年2月、アメリカ占領区域における警察組織の業務が始まる。この時、装備としてビクトリー・リボルバー、M1911A1、そしてM1カービンが支給された。軍政下の警察向けに支給されたM1カービンは合計21,892で、このうちバイエルン州で支給された14,647丁は1955年に西ドイツ政府が買い上げ、それ以外は1949年末までにアメリカ側へと返還された。1955年に設立されたドイツ連邦軍でも、多数のアメリカ製兵器とともにM1カービンが使用されていた。1961年からG3小銃への更新が始まり、1967年から1968年頃までに完了した。一線を退いたM1カービンは予備兵器として保管されていた。1950年の警察予備隊創設時には米国から新品のM1カービンが貸与され、警察予備隊の初めての制式小銃となった。警察予備隊が設置された8月からの2ヶ月間、幹部・火器・通信・施設・武器・車両各課の教育を行うため設置された江田島学校以外の駐屯地はまったく武装されていなかった。10月、特別米極東軍事予備計画(Special FECOM Reserve Program, SFRP)のもと、連合国軍最高司令官総司令部の警察予備隊編成・訓練担当部局である民事部別室(Civil Affairs Section Annex, CASA)は在日米軍兵站司令部(Japan Logistic Command)から7万4000丁のM1/M2カービンを受領した。これらは各駐屯地に派遣された米軍顧問に対し支給され、訓練など使用の度に警察予備隊隊員へ貸与された。1954年に日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれたことで、SFRPで引き渡された物品は日本政府に無償譲渡が認められ、1955年1月をもって実施された。また、軍事援助計画(Military Assistance Program, MAP)の記録によれば、1963年には3,994丁が無償供与されている。これらのM1カービンは、64式7.62mm小銃が採用された後も自衛隊で使用され続け、小口径弾を使用する89式5.56mm小銃が採用されるまでの訓練用として用いられるなど、日本人には馴染みの深い銃のひとつとなり、「カービン銃」は自衛隊の装備する銃器の代表となった。本土復帰前の沖縄(琉球政府)でも、琉球警察に米国軍政府から拳銃とともにM1カービンが支給されており、暴動などの集団的事件の鎮圧や銃器などを使用した凶悪事件の警備などに使用された。機動隊の編成・非殺傷性装備の充実とともに暴動対策用としては次第に使用されなくなったが、暴力団抗争事件などの銃器犯罪対策用としては本土復帰まで使用されていた。豊和工業では1946年から1949年頃、日本政府からの認可を受けてアメリカ軍が使用するM1/M2カービンおよびM1ガーランドの整備および交換部品の生産を行った。アメリカ本土のメーカーは終戦を受けてM1カービンの生産を終了しており、製造設備も既に解体されていた。残された設備は連合軍軍政下ドイツのアメリカ占領区域でドイツ人警察部隊向けの交換部品を製造するため社が買い上げていた。その後、アメリカ陸軍武器科では本国と同等の品質で部品を製造できるように豊和工業側の要員を訓練・監督し、設備の提供も行った。その後も米軍向けの部品生産を続けていたが、進駐軍撤退後は自衛隊で配備されるM1カービンおよびM1ガーランドの整備や製造について責任を負うこととなった。M1カービンはU3 M1という製品名で5,000丁が自衛隊向けに製造されたほか、M1カービンを狩猟用に改良したM300、通称「ホーワカービン」も製造されていた。豊和製M1カービンがタイ王国国家警察向けに輸出されたとされることがあり、実際に豊和製を示す文字とタイ警察の印章が共に刻印されたM1カービンも複数確認されている。ただし、豊和側はこれを否定し、民生用に販売されたM300のうち10,000丁が1965年から1966年にかけてタイ王国へ輸出されたことのみを認めている。1960年代中頃から1970年代初頭にかけて、MAPなどを通じ少なくとも1,015,558丁のM1/M2カービンがアメリカ政府から韓国政府へと引き渡されている。1968年4月、朴正煕大統領は郷土予備軍の設置に際し、M1/M2カービンを主力小銃として配備するように命じた。これによって多くの韓国人がM1/M2カービンでの訓練および射撃を経験することとなり、全国射撃大会()にも「予備軍カービン」部門が新設された。一方、予備軍は軍や警察に比べて武器庫の管理がずさんだったため、1970年代には予備軍から盗まれたM1/M2カービンによる犯罪も多発した。犯罪者らが好んだ銃床を切り詰めて拳銃程度まで小型化したM1/M2カービンは「凶銃」()として恐れられた。また、1982年には元海兵隊員の警官、禹範坤が警察の武器庫から盗み出したM2カービンを使って銃乱射事件を起こし、住民およそ60人を殺害した。予備軍では長らく使用されていたが、2015年3月にはM1/M2カービンによる訓練が中止され、同時に2016年末までにM16小銃への更新を完了させる方針が国防部から発表された。陸上自衛隊の主力小銃だったこともあり、1960-70年代の特撮作品にはよく登場する。

出典:wikipedia

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