ポール・ワイアット・キャラウェイ(Paul Wyatt Caraway、1905年12月23日 - 1985年12月13日)は、アメリカ陸軍の軍人で、最終階級は陸軍中将であった。1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。1905年12月23日、アーカンソー州ジョーンズボロで父・サディアス()と母・ハッティ()の間に生まれた。三人兄弟の一人であり、兄弟の名はフォレストとロバートで、後にフォレストはポールと同じくアメリカ陸軍将官となった。両親はともにアーカンソー州選出のアメリカ合衆国上院議員を務め、母は女性で初めて選挙により選出された上院議員である。彼はジョージタウン大学を卒業し、1933年弁護士の資格を取得した。軍を退役した彼は、1965年から1968年の間アーカンソー州のハーバー・スプリングスで弁護士を開業し、その後ワシントンD.C.のベンジャミン・フランクリン大学で教鞭を執った。彼はメリーランド州で晩年を送ったとされる。彼は小柄であった為、"Small Paul Caraway"と呼ばれ、趣味は銃の収集のみで、有名な仕事中毒者であった。アメリカ陸軍軍史研究所にはキャラウェイの陸軍士官学校在籍時代から退役時までに関する文書と写真を保管し、またフーヴァー戦争・革命・平和研究所には1953年から1964年までの彼の記録を含む論文が所蔵されている。1929年に陸軍士官学校を卒業し、同年少尉に任命された。1935年から1937年、中国・天津で第15歩兵連隊に服した。また、1938年から1942年、陸軍士官学校で法律を教えた。1942年から1944年、アメリカ合衆国旧陸軍省の参謀幕僚を務め、第二次世界大戦中のCBI(中国・ビルマ・インド)戦線で、陸軍参謀長アルバート・C・ウェデマイヤー大将の補佐として仕えた。1945年陸軍准将へ昇進し、陸軍から殊勲章が授与された。戦時中多数の役職を持っていたにも関わらず、彼は一度も戦闘を経験したことがなかった。1945年から1946年は中国・重慶で軍事連絡部の将官として指揮し、1947年には国防大学の教官、1950年にはイタリア・トリエステの部署に配置された。また彼は当時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソンと同行し、アジアの国々へ外交任務を行った。1955年8月から1956年4月まで、韓国で第7歩兵師団の指揮を執り、1957年から1958年までは在日米軍本部で参謀幕僚を務めた。1964年には2度目の殊勲章と同じ勲章を重ねて受領したことを意味する樫葉章が与えられ、陸軍中将に昇進した。朝鮮戦争後は陸軍研究開発局局長に任命された。1964年には陸軍中将として退役した。キャラウェイは1961年2月16日から1964年7月31日まで第3代琉球列島高等弁務官を務めた。しかしアメリカ上院議会は彼を中将への昇進を未だ承認していないにも関わらず、沖縄に到着した彼は、中将の証である3つ星勲章を身に着けていた。これは沖縄住民に強い印象を与え、そして一刻も早く住民の地位を確立することが重要だと、彼は考えた。キャラウェイは、沖縄は中国に対して防衛する為、アメリカ軍支配における重要な地域であると考え、さらにアメリカ軍による占領は、沖縄にとって前向きな力になると信じた。沖縄経済は彼の支配下で成長し、沖縄が日本復帰すれば、権威主義者による支配や沖縄住民に対する差別が行われると考えた。キャラウェイは沖縄の政治家は有能とみなしたが、彼らとは対等な立場にないと考えた。彼は電力価格の値下げ、また著名な銀行の幹部を詐欺の容疑で逮捕するなど沖縄の金融業界の改革を行った。実際キャラウェイ本人が行った命令ではなく、高等弁務官命令という名目で琉球政府が金融機関への不正摘発に踏み切ったとされる。戦前の沖縄は1人あたりの収入が全国で最も低かったため、キャラウェイの統治下で沖縄をアジアで1人あたりの所得が最も大きい一地域にさせようと考えた。しかし経済的な成功をもたらしたが、多くの沖縄住民と日本人から独裁政治を行った理由で非難された。彼は住民による自治運動を鎮圧し、左翼組織から非難を受けたが、沖縄の実業家から賞賛された。本土復帰を望む運動はすべて鎮圧させられ、日本と密接な関係にある琉球政府立法院が可決した法案に対し拒否権を行使し、このような行為は住民からはキャラウェイ旋風と呼ばれた。1963年3月5日、那覇市のハーバービュー・クラブで行った金門クラブ月例会で、「沖縄住民による自治は神話に過ぎない。」と発言し、住民らによる自治を認めなかった。キャラウェイは当時の在日本アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーと対立し、大使館からの重要な情報を伝達せずに保留することが暫し行われた。ライシャワーは当時のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの沖縄に自治権を与える計画に支持し、日本政府に沖縄へより大きな財政援助を行うことを容認した。キャラウェイはこれら全ての措置に反対し、彼らが沖縄に存在する戦略的に重要なアメリカ軍基地を奪うのではないかと信じた。ライシャワーの回顧録に、彼はキャラウェイを「頑固な男("bull-headed man")」、「独裁者("autocratic")」と批判し、またキャラウェイが解雇された際には、「彼は役に立たない。彼は厄介者で、自分自身は何でも知っていると思っていたようだが、実際何も知らなかった。」と述べている。キャラウェイは、ライシャワーは日本と陰謀を企て、沖縄からアメリカ軍を力ずくで追い出そうとしたことに非難した。1962年ケネディ大統領は沖縄を日本に復帰させる意欲を示した。このケネディの政策により、立法院を拒否権で抑え込んだキャラウェイの権力は制限された。1963年3月にキャラウェイは演説で、「沖縄の自治権を強く欲する住民は、彼ら自身で政治を行う能力は無い。」と発言し、政府職員の多くは彼の解任を要求した。同年に起きた渇水により、ダム貯水率が40%よりも下回った際、キャラウェイは取水制限を行った。1964年8月1日、彼は高等弁務官を退き、次代のアルバート・ワトソン2世に引き継がれた。
出典:wikipedia
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