芥田 武夫(あくた たけお、旧姓・氷室 1903年10月20日 - 1987年9月5日)は、兵庫県加東市出身の元野球選手・監督、解説者・評論家。旧制姫路中学(現、兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、早稲田大学では飛田忠順監督の「精神野球」に鍛練され、外野手として活躍。1925年秋季には東京六大学リーグ最初の首位打者を獲得。1926年には主将を務めた。リーグ通算65試合出場、240打数63安打、打率.263、2本塁打(六大学リーグ以前も含む)。卒業後は満州鉄道に入社し、第1回(1927年)と第3回(1929年)の都市対抗優勝に貢献。その後は時事新報、朝日新聞の記者を歴任。記者時代はスポーツ記者として活躍し、高野連の設立と全国高等学校野球選手権大会(1947年までは全国中等学校優勝野球大会)の復興に尽力したほか、オールスターゲームの前身となる職業野球東西対抗戦を同僚の田村恭一らとともに発案した。大阪本社運動部長だった1952年途中に退社し、1953年からは近鉄パールス監督に就任。小玉明利・鈴木武を獲得するなど新人補強に力を入れたほか、独特の練習スタイルで結果を出す。万年最下位という汚名を返上し、1954年にはチームを初のAクラスに導く。1957年退任。その後は朝日放送解説者・日刊スポーツ評論家(1958年 - 1965年)を経て、1966年、近鉄球団の代表取締役社長に就任。1968年には監督に大学の後輩でもある三原脩を招聘した。同年4月から7月の間、急死したパシフィック・リーグ会長の松浦晋に代わって会長代行を務めている。1970年退任。その後は「闘将!西本幸雄」「わが熱球60年史」など野球に関するノンフィクション本を執筆したが、1987年9月5日に死去。享年83歳。翌年の1988年に野球殿堂入り(特別表彰者)した。
出典:wikipedia
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