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国鉄専用型式

国鉄専用型式(こくてつせんようかたしき)は、日本国有鉄道自動車局(国鉄バス)が東名高速線の運行に際して開発させ、1969年から1986年まで導入された、特別設計のバスの総称である。書籍によっては国鉄専用形式(こくてつせんようけいしき)と記載されていることもある。「かたしき」は運輸省(現国土交通省)の自動車に関する用語、「形」の字を用いる「けいしき」は国鉄の用語である。1958年、国鉄バスは来るべき高速バス時代に向け、国鉄バス専用道(白棚線)にて、日野自動車BC10型を使用した高速試験を開始した。国鉄からの発注を受け、まず1961年に試作車両として日野・RX10P 型(車両称号 : 773-1901)を製造、1962年にはいすゞ・BU20PA 型-改(車両称号 : 713-2501→741-2901)が製造された。これらの車両は1台ずつで、実際には名神高速道路での営業運行には用いられなかったといわれている。流線型の車体は、当時のバスとは大きく異なる印象を受けるものであった。また、三菱ふそうは1962年に販売が開始されていた MAR820 型をベースとした試作車として、MAR820 型-改(車両称号 : 743-2901→744-2901)を開発した。この車両はその後製造された量産車に近い外観で、試験終了後には名神高速線で実際に営業に使用された。これらの試作車により、白棚線のバス専用道や一部完成した名神高速道路での走行試験が行われ、加減速性能や操縦安定性を確認した。1964年(昭和39年)の名神高速道路全通に伴う名神高速線の運行が決定すると試作車のテスト結果を踏まえて各メーカーに高速バスに対応した車両の開発を依頼した。上述4車からRA100P・MAR820改を採用。当初導入車両は車体長が11.5 mであったが、1964年導入の1台だけは大型自動車枠上限の12 mまで延長された上で車内便所も設置された。この評価を踏まえて1965年(昭和40年)以降の増備車では、全車両に便所ならびアンチスキッド装置の装備と車体長も全て12 mに延長された。東名高速道路の全通を1969年に控え、国鉄バスでは東名高速線の運行を行うことになった。名神高速線に使用された車両の運用・保守実績から、東名高速線にはさらに高速バス運行に特化した特別設計の車両を導入することを決定、1966年に各車両メーカーに開発を依頼した。国鉄から要求されていた性能は、下記に挙げるようなものであったが、この要求は、当時のバス・トラック用のエンジンは230 - 280psというのが標準レベルで、最も強力なエンジンを搭載していた日野 RA100P でも320psであったこと、また、当時の一般的な1.5Lクラスの乗用車でさえ、120km/h程度の最高速度であることを考えると、大型バスに対する性能要求としては、当時の自動車全般の常識を大きく逸脱した内容であった。また、名神高速線で運用していた車両において冷却性能の不足や駆動系のトラブルが発生したため、改善目標として「30万kmノンオーバーホール」が定められた。耐久性がこの目標に達しているかどうかを確認するため、名神高速道路での100km/hでの20万km走行試験も課題として要求した。まずこれをクリアしない限り、東名高速線への採用はなかったのである。20万kmという走行距離は、東京 - 大阪を毎日往復していれば1年程度で到達する距離であり、100万kmノンオーバーホールがあたりまえの今日では、ごく控えめの試験内容であるが、やはり当時の常識からは大きくかけ離れた過酷な試験であった。この国鉄の過酷な要求に、各メーカーはさまざまな方法で対応した。開発された車両では、ゼロヨン加速タイムは26秒に達した。いずれの車両も、昼行便向けの車両は側窓(客室窓)が引き違い式、夜行仕様は固定式である。また、夜行仕様では全座席にシートベルトが設置された。国鉄専用型式では、運転台回りもメーカー標準型とは異なっていた。自然吸気の大排気量エンジンと共に自動車メーカーを悩ませたのが、1速を発進ギアとした、5速トランスミッションであった。通常大型バスは2速発進であり、1速はエクストラローの扱いで、急勾配での発進などの非常用である。当然、国鉄向けのトランスミッションは専用品となり、生産数も極少量となったが、公道を走る以上は運輸省の型式認定を受けなければならず、そのため、国鉄形のみ別に試験を行う必要があり、多大な費用負担を伴う。これは補給部品の常時確保と共に、メーカーにとっては非常に大きな損失となっていた。しかし、厳しい注文の一方で、開発費などでの国鉄のバックアップは皆無に等しく、厳しくなる一方の排出ガスと騒音規制を看過できないところまで追い詰められてしまった。さらに、開発の停滞により、ついには性能面でも民間型の後塵を拝するありさまとなってしまった。この性能面について、一般的にメーカーに求められていたものは、あくまで通常の観光バスとしての高速巡航性能であり、国鉄ハイウェイバスのように途中バスストップでの加速力が重視されるなどの性能は「特殊な要求」でしかなかったのである。これらの状況から、日野は「継続の価値無し」と判断し、1975年限りで国鉄高速車の開発中止を決定した。お家事情により抜けられない三菱ふそうと、市場シェアの低下に歯止めをかけたい日産ディーゼルの車両は、1981年まで導入が続けられた。シャーシ型式の変更はあったものの、車体のモデルチェンジは全く行われず、新規参入の民営バスと較べても陳腐化は否めなかったが、座席単体の改善などは行なわれた。1980年代に入ると、一般の観光バスでは既にハイデッカー車の時代となりつつあった。国鉄バスも東京湾岸線用にハイデッカー車 (MS613SA → MS715S) を導入していたことから、1984年に新車を導入する際には、東名・名神高速線にもハイデッカーの高速車を導入することを決めた。この時も各社に発注の打診を行ったが、受注したのは三菱ふそうのみであった。排出ガス規制の強化により、再度エンジン開発から始めることになるが、1事業者のために特注の車両を少数製造することについて、コスト高になってしまうことが敬遠されたのである。三菱ふそうも当初は辞退することになっていたが、他社にも断られたことを聞き、やむなく受注に踏み切ったという。要求仕様は1969年当時とほぼ同様であるが、この頃にはターボチャージャーの信頼性も確立していたため、メーカーの働きかけに国鉄が折れる形で、初めてターボチャージャー付エンジンの導入が認められた。これにより、ようやく標準仕様のバスエンジンをベースにした開発が可能になった。こうして、東名・名神高速線では初のハイデッカー車であるとともに、最後の国鉄専用型式となるP-MS735SA 型(744形)が登場した。搭載エンジンは、ターボチャージャー付V型8気筒の 8DC9T 型・350 ps、トランスミッションは従来どおり1速発進の5速MTであった。フロントサスペンションは、独立懸架ではなく従来どおり車軸懸架だが、リアにはワイドサスが装備された。車体は引き続き富士重工製とされた。MS735SA は東名高速線の新しい看板車として、1984年から1986年までに16台が製造され、ドリーム号を中心に運用された。1986年式では方向幕がフロントガーニッシュ内に収められ、より市販車に近いスタイルになっている。この型式を最後に、事実上、国鉄バスのフラッグシップの歴史は終わりを告げることになる。1986年には初のスーパーハイデッカー車として、ドリーム号用に三菱エアロクィーンW(P-MU525TA改)を導入している。また、名神ハイウェイバスの超特急に使用する車両として、日産ディーゼル・スペースウイング(P-DA67UE改)が採用されている。国鉄専用型式の登場から17年が経過し、国鉄の分割民営化を控えていたこともあって、ようやく国鉄専用型式ではなく、市販車へのターボチャージャー装備で対応することになった。JR化以降の高速車は、国産4メーカー揃っての納入が再開され、輸入車も交えた豊富なバリエーションで旅に花を添える存在となっている。しかし、東名高速線の車両については、JR化後もしばらく大馬力指向は続いた。1987年にJR東日本バスが導入したのは、型式こそ市販車と同様の純正エアロバス(P-MS725SA改)であるものの、実際にはMS735SAとほぼ同様のシャーシ(但し前軸は市販車同様独立懸架に進化)を利用し、変速機は一般市販車と同じフィンガーシフトの6速MT(2速発進)とした車両であった。また、1989年のJR東海バスで導入された車両は、エアロクィーンMの足回りとエアロバスの車体を組み合わせた車両であった。また1991年度までの MS7 系車輌は、頻繁な変速と時速90kmにおいて6速 → 5速にシフトダウンできるよう、クラッチ、シンクロメッシュ、ギア関係が強化されており、ギア比も一般市販車と比べ、高速域での加速力を重視したもの(クロースレシオ)となっていた。JR東海バスで同時期に導入された北陸道、東名高速線用日産ディーゼル車についても同様の措置が採られていた。動力性能とは関係ないが、運転席側のバックミラーが標準車とは異なり、延長ステーでの取り付けとなっていた。これも国鉄の基準に沿ったものが引き継がれていたが、1993年に導入されたニューエアロバスからは、設計段階で延長ステー設置を想定しておらず、ステーの延長はかえって視界を損ねることから、メーカー標準のミラーに変更されている。このニューエアロバス (U-MS821PA) も、折戸を装備するハイデッカーながら、自然吸気400 ps エンジンを搭載していた。1996年にJRバス関東で導入されたいすゞ・ガーラは、東名高速線専用車としては実に27年ぶりのいすゞ車としてバス雑誌誌上でも話題となり、自然吸気450 ps エンジンと、28年前に不採用となった BH50P の汚名を返上するかのような性能で、乗務員の評価も良かった。一方、搭載エンジンはV型12気筒と、奇しくも27年前に国鉄専用型式が開発された時と同様のものになっていた。MS735SA以外の国鉄専用型式車両は、1993年頃まで使用されていた。西日本JRバスの車両は早期に置きかえられたが、JR東海バスでは最後まで東名高速線に導入していた。また、JRバス関東では、常磐自動車道(常磐道)・東関東自動車道(東関道)への高速バスの続行便に使用していたほか、一部はトイレ撤去座席増設で旅客定員を44人とし東京湾岸線にも使用された。カラーリングは大半の車両がJR高速バス色に塗りかえられたが、JR東海バスの車両の中には国鉄高速バス色のまま廃車になった車両もあった。MS735SAは2000年まで使用されていた。西日本JRバスに引き継がれた5台は、名神高速線や北陸ハイウェイバスで使用されたが、1996年2月頃に全廃となっている。JR東海バスの6台は、シートを MU525TA と同様のレッグ・フットレスト、マルチステレオ付に交換、ピッチを拡大し旅客定員36名に変更し、主に「ドリームなごや号」に使用されていたが、1990年代後半には予備車や波動用(高速道路経由の競艇輸送など)に格下げとなった後、3社の中では最も早く1995年3月には全廃されている(1台は事故廃車)。JRバス関東の5台は原型のままで1994年頃に地方の支店に転属し、常磐道・東関道への高速バスで使用された。最後の1台は、1994年以降は水戸支店に配置されていたが、1999年6月に東京支店に貸し出され、開業30周年を迎えた東名高速線でリバイバル運行された他、往時のドリーム号を再現するツアーにも使用された後、2000年6月25日付けで廃車となった。ここに、国鉄専用型式の運用は全て終了したのである。いずれの車両も、貸切車に転用されることはなく、最後まで高速車として使命を全うした。設計段階から高速路線に特化させた車両であったため、急勾配での発進ができないことや、ステアリング操作が過重であるなど、一般路での使用には不向きであった。また、運転台機器配置がメーカーに関わらず統一されており、これは逆にどのメーカーの一般市販車とも異なっていたため、他事業者への譲渡も全くなかった。また、MS735SA 以外の車両は、車体や内装に軽合金が多用されていたため、解体業者でもやや持て余し気味だったという。廃車後、すくなくとも2台が保存されている。全て静態保存である。この他、MS735SA のうち1台がバス旅フォトラリーの賞品となっていたが、引き渡された後の動向は不明。国鉄専用型式は、当時の常識からかけ離れた高性能を要求された上、バス市場全体から見れば極めて少数で、製造コストも高くついたことから、その要求仕様には時期尚早とする声もあった。しかし、その後高速道路網の整備が進むにつれ、市場環境は高速道路走行が日常的になり、車両の耐久性・信頼性も大きく向上した。登場当初は過剰と考えられた性能も、高速バス網が発達した今日では標準的な性能と位置付けられていることを踏まえると、国鉄専用型式は高速道路を走行するバスの性能における1つの技術的目標としての位置づけと考えられ、日本のバス技術の向上に大きく貢献したといえる。

出典:wikipedia

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