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ブラインド・フェイス

ブラインド・フェイス(Blind Faith)は、イギリスのブルースロックバンド。メンバーはエリック・クラプトン(g、元ヤードバーズ、クリーム)、ジンジャー・ベイカー(ds、元クリーム)、スティーヴ・ウィンウッド(vo、key、g、元スペンサー・デイヴィス・グループ、トラフィック)、リック・グレッチ(b、元ファミリー)。有名バンド出身の大物ミュージシャンが一堂に会したいわゆる'スーパーグループ'で、ブルースとロックを融合させたパイオニアとされる。リリースされたスタジオ・アルバムは『スーパー・ジャイアンツ』のみであり、収録曲のゴスペルのような「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」は、クラプトンにとって重要なレパートリーの一つとなり、デレク・アンド・ザ・ドミノス時代やソロに転じてからのライブでもしばしば演奏された。「マイ・ウェイ・ホーム」は、ウィンウッドのライブで度々演奏された。ブラインド・フェイスの始まりは、1968年中頃のクリームの解散に遡る。最初の「スーパーグループ」であったクリームは、数年の間に何百万ものアルバムを売り上げ、グループ及び各メンバーのレパートリーは世界的な人気を博することとなった。しかし、バンド結成以前からのジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの不仲は改善されることはなく、クラプトンは2人の仲を取り持つのに尽くしたが徒労に終わり、結局バンドは解散となった。クリーム解体後のクラプトンは商業的におもねったブルースを演奏することに嫌気がさしており、新たなジャンルへ実験的で束縛されないアプローチを進めていくことを望んでいた。スティーヴ・ウィンウッドも、3年間リードシンガーを務めていたスペンサー・デイヴィス・グループで同様の問題に直面していた。ウィンウッドはジャズの要素を取り入れることでバンドのサウンドを変化させたかったが、他のメンバーと方向性が異なったことで脱退し、1967年にトラフィックを結成した。トラフィックはその2年後の1969年に活動を一時停止、ウィンウッドは友人のクラプトンと共に、サリーにあるクラプトンの地下室でセッションを始めた。ウィンウッドとクラプトンは、以前に「パワーハウス」プロジェクトで共に活動していた。クラプトンはジャム・セッションには満足していたが、本格的なバンド活動を始めるのは躊躇していた。1969年のある日、ジンジャー・ベイカーが彼らの活動に加わり、新バンドは最終形態に近い形となった。ただクラプトンはジャック・ブルースと、もしそれぞれが共に活動することがあるなら、もう一度3人でプレイすると約束しており、ベイカーを新バンドに誘うとなればブルースも加えるべきではないかという思いがあり、一方でクリーム解散から9週間しか経っていないのに再結成はしたくないと考えていた。その上、また「クリームのような」スーパースターとしての環境に身を置きたくもなかった。結局ウィンウッドが、ベイカーはグループの音楽性を高めてくれるし、彼ほどのドラマーを他に見つけるのは難しいと主張して、バンドのラインナップにベイカーを加えるようクラプトンを説得した。1969年5月までに、リック・グレッチ(ファミリーのベーシスト)が誘われ、リックはツアー途中でファミリーを脱退して加入した。アルバムのレコーディングはエンジニアのアンディ・ジョーンズがモーガン・スタジオでバックトラックの大半を録音し、アラン・オダフィーが残りのトラックを録音、オーバーダブとミックスがオリンピック・スタジオで行われた。これらの作業はプロデューサーのジミー・ミラーが監修し、彼はそれぞれのトラックを商業的な標準の3-5分以内に収めるのを好んだ。その後バンドはブラインド・フェイス(盲目的信頼)と名付けらる。これはクラプトンの新しいグループに対するシニカルな視点からのものであった。グループ結成のニュースはメディアとファンに興奮を持って迎えられ、「スーパー・クリーム」との告知さえ行われた。バンドは、1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで行われたフリーコンサートでデビューし、当時史上最高の10万人を動員したという。その内容は観客から良く受け取られたものの、クラプトンは演奏は平均以下であると考え、群衆がほとんど全てに拍手喝采するのを、へつらいであり過分であって、クリーム時代の名声の名残によるものだと考えていた。クラプトンは、バンドが十分にリハーサルもせず十分な準備が出来ていないと考え、ツアーに出ることを嫌がった。バンドがクリームの二の舞になることを恐れたのである。ウィンウッドはアイランド・レコードと契約していたので、彼はクラプトンとベイカーがイギリスで契約していたポリドール・レコードへの貸し出しという形になった。おそらくはこの取引の一部として、彼らはアイランド・レコードのためのプロモーションシングルを一枚リリースした。このシングルは、アイランドがオフィスを移転したことを発表するためのものであり、「"Change Of Address From 23 June 1969"」と題され、片面のみにインストゥルメンタル・ジャムが収められ、ラベルにグループの情報は全く記載されなかった。ラベルに記載されたその他の情報はアイランドの新たな住所、電話番号、ケーブルアドレスのみであった。このセッションは、おそらく1969年3月から5月の間にオリンピック・スタジオで行われたもので、500枚ほどがプレスされ、ほとんどがイギリスのディスクジョッキーや音楽業界人に配付されたと考えられている。そのジャム・セッションは、31年後の2000年に発表された『スーパー・ジャイアンツ』デラックス・エディションのボーナスCD「"Change of Address Jam"」として日の目を見ることとなった。ハイド・パークでのコンサートの後、アルバムに向けてのレコーディングは継続されつつスカンジナビアでの短期ツアーが行われた。バンドは小さなギグを行い、それはアメリカ及びイギリスでのツアーのリハーサルとなった。短期ツアーの後、バンドはアメリカでのツアーを行い、7月12日にはマディソン・スクエア・ガーデンで2万人の聴衆の前プレイした。アメリカ・ツアーは7週間続き、8月24日のハワイで終了した。ツアーでの大きな問題は、パンドのレパートリーがごく僅かで、1時間を満たすのがやっとである事だった。彼らは、聴衆を喜ばせるためにやむを得ず、新たなナンバーよりも更に古く人気のあったクリームやトラフィックのナンバーを演奏することになり、これはクラプトンがまさにそうありたくないと考えていた状況であった。「スーパー・クリーム」はマディソン・スクエア・ガーデンでの公演初日で観客が引き起こした暴動の中にっちもさっちもいかない状態に陥り、彼らは観衆をなだめ、新曲の不足によって残された空白を埋めるために、クリーム時代からの同じマテリアルをプレイした。彼らの前座を行ったのはフリー、テイスト、デラニー&ボニーといったバンドであった。特にクラプトンは、デラニー&ボニーの魂がこもった、気さくなブルースを気に入っていた。彼はブラインド・フェイスよりもデラニー&ボニーと過ごす時間が増え、バンドにおいてはウィンウッドにより際立った役割を任せるようになった。1969年7月に、アルバム『スーパー・ジャイアンツ』はリリースされ、イギリス及びアメリカでチャート1位となった。アメリカではBlack Albumsでも40位を記録し、これはイギリスのロックバンドにとっては見事な離れ業であった。発売から1か月で50万枚を売り上げ、アトランティック・レコード(アメリカではアトコ)及びクラプトンとベイカーに巨額の利益をもたらした。本作の売れ行きは、クリームのアルバムの売り上げにもつながり、こちらもアメリカではアトコの配給であった。本作のリリースは論争を引き起こした。アルバムジャケットの写真がトップレスの少女であったためである。少女は銀色の宇宙船を手に持ち、これはロイヤル・カレッジ・オブ・アートの宝石職人、ミック・ミリガンがデザインした物であった。この宇宙船は男性器を象徴した物と見なされた。アメリカではイギリス盤の内側に使われたバンドの写真を使ったジャケットを採用した。また、イギリスでも別バージョン、薄いラミネートカバーのついたジャケットが作成された。別バージョンのレコード番号はオリジナル盤と同じであるが、末尾に「B」が付け加えられた(583 059B)。カバーアートはクラプトンの個人的な友人で、以前のフラットでの同居人であった写真家のボブ・サイデマンによるものであった。サイデマンはジャニス・ジョプリンやグレイトフル・デッドの写真でよく知られていた。バンドと少女の関係に関する噂は論争をあおることとなった。噂の中には、彼女はベイカーの隠し子であり、バンドのグルーピーで奴隷のように扱われていたというものもあった。実際は彼女はロンドン郊外に居住しており、両親の同意の上でモデルになったのであった。これはサイデマンのジャケットに関する随筆で説明されている。ジャケットにはタイトルもバンド名も表示が無く、包装紙のみが買い手に対して誰のアルバムかを説明していた。本作は当初いくつかの国で発売禁止になったが、オリジナルのアートワークは人気が高くコレクターズアイテムとなった。1970年代後半になるとRSOレーベルから世界的に発売されることとなった。1980年代半ばにはモービル・フィデリティ・サウンド・ラボからアナログ盤およびゴールドCDのリマスター盤が発売された。2000年には2枚組デラックス・エディションがポリドールから発売され、別バージョン、アウトテイク、スタジオリハーサルが収録された。ツアーが8月に終わった後、イギリスに戻った彼らにはイギリスツアーを行うオファーもあったが、結局10月までにバンドは事実上の解散を迎え、ブラインド・フェイスの活動は半年にも満たないということになった。バンドが残したアルバムは1枚のみであったが、いくつかのライブテイクはウィンウッドの1995年のアルバム『"The Finer Things"』に収められた。その後クラプトンはスポットライトから外れ、初めはプラスティック・オノ・バンドに参加、続いてデラニー&ボニー&フレンズのサイドマンとしてツアーに参加した。彼は自らをクリーム、ブラインド・フェイスを解散させた疫病神と思い込んでいたが、これらの活動が彼を癒すこととなった。サイドマンとしての役割の後、彼はデラニー&ボニーのメンバー数名と共に新たなスーパーグループ、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成した。クラプトンはブラインド・フェイスのレパートリーを排除せず、「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」と言った曲はその後のソロ活動でも演奏されている。クラプトンと異なり、ジンジャー・ベイカーはブラインド・フェイスでの経験を楽しみ、グレッチやウィンウッドと共にジンジャー・ベイカーズ・エアフォースを結成した。共に何度かステージに上った後、ウィンウッドはグレッチと共に脱退、アイランド・レコードに戻ってトラフィックを再結成した。グレッチはアルバム『ザ・ロウ・スパーク・オブ・ザ・ハイヒールド・ボーイズ』『ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン』にベースで参加した。ウィンウッドはその後もソロ経歴を積み重ねたが、グレッチは様々なグループに参加した後、1990年に脳内出血で死去した。クラプトンとウィンウッドは2000年に映画『ブルース・ブラザース2000』に「ルイジアナ・ゲーター・ボーイズ」のメンバーとして出演した。クラプトンとウィンウッドは後にブラインド・フェイス時代の活動を肯定的に捉え、そのレパートリーをステージで演奏したり、様々なアルバムに収録している。2007年7月に、クラプトンとウィンウッドはイリノイ州ブリッジヴューのトヨタパークで行われたクロスロード・ギター・フェスティバルに出演、「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」「マイ・ウェイ・ホーム」「泣きたい気持」の3曲を演奏し、ブラインド・フェイスの再結成と騒がれた。この時の模様は同年リリースのDVD『クロスロード・ギター・フェスティヴァル 2007』に収録された。この成功が刺激となり、翌2008年2月にはマディソン・スクエア・ガーデンで2人は再び共演、3日間の公演を実現した。これは公式なブラインド・フェイスの再結成ではなく、むしろ「ウィンウッドとクラプトン」の共演であった。彼らは、ブラインド・フェイスのナンバーに加えてトラフィック、デレク・アンド・ザ・ドミノス、クラプトンのソロおよびジミ・ヘンドリックスのカバーを演奏した。バンドはウィリー・ウィークスがベース、ドラムはイアン・トーマス、キーボードはクリス・ステイントンであった。マディソン・スクエア・ガーデン公演の模様は、2009年にライヴ・アルバム及び映像作品『ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン』として発表された。2009年6月10日、ウィンウッドとクラプトンはニュージャージー州のアイゾッド・センターを皮切りとする14日間に及ぶアメリカ・ツアーを決行した。バックバンドは前年と大きく変わらなかったが、ドラムスがイアン・トーマスからエイブ・ラボリエル・ジュニアに交代し、バッキング・ヴォーカルにミシェル・ジョン、シャロン・ホワイトが加わった。翌2010年にはヨーロッパツアーを行い、ドラマーはスティーヴ・ガッドに交代した。2011年は、5月26日から6月1日までロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで5公演を行い、11月から12月にかけて日本で15公演を行った。『スーパー・ジャイアンツ』のビルボードでの最高順位:

出典:wikipedia

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