LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

清和政策研究会

清和政策研究会(せいわせいさくけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥(十日会系)。旧称は清和会。略称は公式には清和研としているが通常は旧称を用いることが多い。通称、細田派(福田派→安倍派→三塚派→森派→町村派→細田派)。党内では、平成研究会や宏池会と並ぶ保守の名門派閥である。自民党内では保守合同時の日本民主党(岸信介・鳩山一郎派)の流れを汲む。日本民主党の「反・吉田茂」路線を起源に持つため、親米を基調としながらも自主憲法論・憲法改正論を唱え、再軍備に積極的であるなど比較的タカ派色が強く、冷戦期にはその反共主義志向の反映として、韓国・台湾に独自の人脈を持った。岸派から続く自民党の有力派閥だったが、いわゆる「角福戦争」以降、自由党系の田中派(後の平成研究会)と大平派(宏池会)の主流派連合に対し、非主流派に甘んじることが多かった。森内閣発足以降、主流派として実質的に政権の中枢を担うようになった。グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)の旧館(旧李王家邸)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっていたが、同ホテルの営業終了に伴い、2011年2月、紀尾井町に移転した。「十日会」(岸信介派)の分裂を受けて、福田赳夫を中心として1962年に結成された「党風刷新連盟」(結成当初は「党風刷新懇話会」)が起源。1970年11月に時の首相・佐藤栄作に勧められ「紀尾井会」、通称福田派が派閥として正式に旗揚げされた。1972年まで7年に及んだ佐藤栄作政権の後継をめぐるいわゆる「ポスト佐藤」の争いにおいて、佐藤の意中の人は福田であったが、政権末期に田中の猛追を受け、結局総裁選で敗れた。この挫折を機に、領袖福田のもと、木曜クラブ(田中派)と「角福戦争」と呼ばれる激しい派閥抗争を繰り広げたが、福田自身が「派閥解消」論者であり、必ずしも派閥活動に積極的でなかったこともあって伸び悩み、1976年に悲願の福田赳夫政権誕生にこぎ着けるものの2年後には大平・田中連合の前に総裁選で敗北した。1972年、総裁選で敗れた直後に周山会(保利グループ)と春秋会(園田派)を統合して「八日会」へと名称変更、1976年末、福田内閣の発足にあたり派閥解消を提唱、率先して八日会を解散したが、福田退陣後に再結成の機運が高まり、1979年1月に清和会を結成した。出典は、東晋の元帝が詔で諸葛恢の統治を「政清人和(清廉な政治でおのずから人民を穏やかにした)」と称賛した故事による(『晋書』諸葛恢伝)。この旧「清和会」は略称ではなく正式名称である。1984年に自由革新同友会(石原派・旧中川派)を吸収する(後の志帥会の源流。なお、古屋圭司の養父・古屋亨は先行離脱し福田派移籍していた)。安倍晋太郎が会長であった際、派閥内の三塚博・加藤六月・塩川正十郎・森喜朗の4人の実力者を称して安倍派四天王と呼び、竹下派七奉行と比較された。安倍はポスト中曽根を逃したものの竹下政権では幹事長として主流派入りし、ポスト竹下の最右翼と見なされていたが、リクルート事件のダメージを受けたまま病に倒れた。その後、安倍の後継会長を三塚・加藤が争い(この抗争は両者の名を取って「三六戦争」と呼ばれる)、森の支持を得た三塚が1991年6月、清和会会長に就任した。同年、三塚は総裁選に出馬するが、加藤がこれに反し、竹下派の推す宮澤喜一支持を表明した。そのため加藤は同年10月に三塚派を除名され、政眞会を結成、のちに自民党も離脱することとなる。加藤の離脱後、三塚を支持した森、塩川、小泉、玉澤徳一郎、中川秀直などと、加藤を支持したものの清和会に残った亀井静香、平沼赳夫、中川昭一、尾身幸次、町村信孝などとの間にしこりが残ったといわれている。三塚派に移行してからは、森グループと、急速に派内での発言力を増していた亀井静香グループとの対立が激しくなる。1994年11月、自民党の下野に伴い呼び掛けられた派閥解消で、清和会は解散し、派閥に代わり結成が認められた政策集団として「21世紀を考える会・新政策研究会」を結成した。三塚は同会の会長にそのまま留任した。1998年、森グループ主導により、三塚派の独自候補として小泉純一郎の自民党総裁選出馬を決定したことに亀井グループが反発。異議を唱えるが押し切られ、総裁選後に森が党幹事長に就任したことで派の分裂が決定的となる。同年9月に亀井グループは三塚派を離脱した。その後、12月に森が三塚から派閥を継承する。森喜朗が三塚の後継会長となった1998年末に、かつての清和会にちなんで「新政策研究会」から清和政策研究会へ改称した。2000年に森が首相に就任し福田以来の総裁派閥となった。森が慣例に従い派閥を離脱したため、小泉純一郎が2000年4月から清和政策研究会会長に就任し森内閣を支えた。派閥を継承した森は同じく発言力を増しつつあった小泉と組むことによって混乱していた派内をまとめることに成功した。なお、小泉が会長を務めていた期間も呼称は森派のままであった。森の退陣後に小泉が首相に就任、森は派閥の会長に復帰した(小泉は派閥離脱)。引き続き総裁派閥として勢力を伸張し、2005年の衆議院選挙で、橋本派を抜き、党内第一派閥へと躍り出た。2006年、小泉総裁退任に伴う自民党総裁選挙では有力候補として同じ森派の安倍晋三・福田康夫が挙がった。森派はかつて安倍・福田の父親が率いた派閥であることも注目され、2人が立候補すれば森派の分裂も予想されたものの(安福戦争)、福田が不出馬を宣言したため派閥分裂の危機は回避され、9月に安倍が総裁に選出された。2006年10月19日、森は派閥会長を退任し、町村信孝が同派会長に就任。派閥名は「町村派」となった。10月26日の派閥総会で森は同派名誉会長に就任した。町村への派閥継承は、幹事長に就任したもう一方の実力者中川秀直とのバランスを考慮したものだった。その影響力や行動などから領袖から退いた後も森が事実上の派閥のオーナーと考えられていた。同年9月、福田康夫が総理総裁になり森・小泉・安倍・福田の4代連続で総理総裁を輩出する。町村が福田康夫内閣の官房長官に就任したことにより、派閥会長職を廃して代わりに代表世話人を置くことを決定。代表世話人には町村・中川秀直・谷川秀善(参院)の3人が就き、集団指導体制となった。官房長官という要職での入閣により閥務に比重が置けない町村と、党幹事長を辞任して派閥に復帰した中川の派内での処遇を考慮した結果の措置であった。報道での派閥名は町村派から変更されなかった。2007年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙の結果自民党は敗北したが、町村派は参議院でも津島派を抜き、衆参両院で党内最大派閥となった。数を減らした他派閥に配慮して、無派閥議員への派閥勧誘は他派閥が終えるのを待ってから行った。2008年3月、総理総裁就任以来派閥を抜けていた安倍晋三が「相談役」として復帰。安倍復帰前からの相談役としては衛藤征士郎らがいる。一方、小泉純一郎は首相退任後は無派閥のまま、2009年に政界を引退した。2008年9月、福田総裁退任に伴う自民党総裁選では、町村も有力な総裁候補ではあったものの、安倍・福田と2代にわたって政権運営に失敗したことから、森・安倍・町村は安倍・福田政権を支え続けた麻生太郎を支持し、清和会から総裁候補を擁立しない方針を採った。中川がこの方針に反して小池百合子を擁立したため、派内の分裂が表面化した。麻生内閣発足に伴い幹事長ポストに細田博之が就任。町村は官房長官を離任したが、集団指導体制に変更はなかった。2009年1月に入り、2011年からの消費税増税を目指した麻生政権に対し、中川は「その瞬間に判断する」などと本会議での造反をちらつかせ抵抗した。一時は決裂の様相も見られた。結局税調幹部でもある町村が増税実施時期を明記しない形での中川との妥協案を作成し対立は収束したが、政権に反対した動きは森、安倍などの怒りを買い、中川を代表世話人から外す考えが示された。2009年2月5日の派閥総会で森が提案した人事案は、町村を会長に昇格させ、中川と谷川を代表世話人として続投させるというものであった。中堅、若手の一部からは反対する声もあったが、最終的に人事案は了承され、町村が会長に復帰することになった。同年3月5日の総会で森が最高顧問から安倍と同じく相談役に就くことが決まり、町村会長のもとでの新体制が固まった。2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙により、衆議院における勢力は公示前の3分の1に減少し、古賀派に次ぐ第2位に後退したが、参議院と合わせ、全体として最大派閥の座は維持した。9月3日、元防衛大臣の小池百合子が「派閥単位ではなく、党まるごとで一致団結すべき」として退会した。2009年9月に発足した谷垣新執行部では総裁および党幹部ポストから外された。町村派が党執行部ポストに就任できなかったことは、福田派時代の1979年の大平政権以来30年ぶりのことであった。同年10月、町村の意向で代表世話人の廃止が了承された。同月末、代表世話人廃止により派内で事実上失脚した中川秀直が退会した。2010年8月12日の自民党参議院議員会長選挙をめぐり、森喜朗が音頭を取って町村派、額賀派、古賀派は谷川秀善参院幹事長を推した。しかし町村派の安倍晋三、世耕弘成など中堅・若手が「派閥で動くのは良くない」と造反し、伊吹派の中曽根弘文を推薦した。選挙の結果、中曽根が参院議員会長に就任した。町村派では9月2日に幹部会を開き、造反議員の処分を検討したが結論は出ず、森は、谷川の票固めに失敗した鈴木政二をなじったり、安倍に対する不満をあらわにしたりした挙句、「額賀派や古賀派に合わせる顔がない」「もう面倒見切れない」と派閥退会届を提出した。12月11日、会長の町村が正式に届を受理した。2012年9月の総裁選において、会長の町村が出馬を表明。復帰後派内に影響力を持つ安倍に支援を要請するが、安倍はこれを拒否して自らも出馬。町村もそのまま出馬し、20人の推薦人で派内は完全に分裂する。選挙戦の最中に町村は体調不良で活動を中止するも、そのまま投票日まで立候補は取りやめなかった。これは立候補を取りやめた場合、自身への票がそのまま安倍に流れることを警戒したためともいわれる。結局、投票で安倍が当選、自身2度目の総裁に返り咲いた。第46回衆議院議員総選挙の結果、自民党が政権を奪還、安倍が内閣総理大臣に再び就任。第23回参議院議員通常選挙の結果、会員の山崎正昭が参議院議長に就任。第47回衆議院議員総選挙の結果、会長の町村が衆議院議長に就任。このため、立法府と行政府の長を町村派出身議員が独占することとなった。また、慣例により町村が会派を離脱したために、細田博之が後任の会長に就任し、細田派となった。第24回参議院議員通常選挙の結果、会員の伊達忠一が参議院議長に就任。※1 森の総理大臣就任期間の留守役※2 3人の「代表世話人」による集団指導体制(2015年11月19日現在)(計62名)※安倍晋三は自民党総裁および内閣総理大臣在任中のため脱会中(自民33+無所属1名)※山崎正昭は参議院議長在任中のため脱会中

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。