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阪急320形電車

阪急320形電車(はんきゅう320がたでんしゃ)は、かつて阪神急行電鉄及び京阪神急行電鉄(ともに現在の阪急電鉄)に在籍した小型の通勤形電車である。宝塚線の急行の梅田 - 宝塚駅間33分運転開始に際し、宝塚線では1921年の51形63 - 66以来14年ぶりの新車として1935年に12両が製造された。本形式は1935年3月に320 - 331の12両が神戸の川崎車輌で製造された。外観は先に神戸線に登場した900形を宝塚線向けに小型化したスタイルで、基本的なデザインは引き続いて増備された380形、500形に受け継がれ、戦後の1948年に運輸省規格型電車として登場した550形も含めて宝塚線小型車グループを構成することとなった。なお、本形式の製造を開始した1934年に宝塚線への大型車投入が検討されたが、当時の宝塚線の輸送状況から大型車の投入は見送られることとなり、1952年の車両規格向上工事完成による810系及び600形の入線まで小型車の増備が続けられることとなった。車体は前述のとおり900形を宝塚線向けに小型化した軽量構造の全鋼製車体で、車体長は約15m、車体幅は約2.35mである。側面窓配置はd1(1)D6D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)の両運転台車で、段つきのウインドシルも900形を引き継いでいるが、客用扉間の窓数は車体長が短いことから、900形に比べると2枚少なくなっている。妻面は900形同様中央に貫通扉を配した3枚窓で、運転台側幕板部に行先方向幕、助士台側幕板部に尾灯を配しているのも900形と同じである。ただし屋根は900形に比べると浅くなっているが、中央にガーランド型通風器を1列4基配し、その左右にランボードを巡らせているのは通風器の個数が違うとはいえ900形と同じである。座席は900形と異なりロングシートであるが、袖仕切の形状は900形や同時期に製造された920系に比べて丸みが大きいものになっている。主電動機はゼネラル・エレクトリック社製GE-263のスケッチ生産品である芝浦SE-107を吊り掛け式で4基搭載し、制御器は電空カム軸式のPC-5であった。歯車比は51形75以降や300形310 - 319と同じ28:58(1:2.07)で、高速性能を重視したものとなっている。台車は川崎車輌製K-12で、これはボールドウィンBW-78-25AAのデッドコピー品であった。ブレーキは当初よりM三動弁を使用するAMM自動空気ブレーキが採用されており、最大5両編成が可能となり、戦後の輸送力増強期に威力を発揮した。なお、翌1936年以降に増備された380形や500形は性能的には300形300~309に準拠したものであり、51形ベースの本形式とは主電動機特性などが異なる。そのため、当初はこれらの形式との併結及び共通運用はできなかった。純然たる宝塚線向けの新車としては1形以来となる本形式は、当初の予定通り急行運用に投入され、梅田 - 宝塚間33分運転を開始した。1基当たりの1時間定格出力が82kWの電動機を搭載した380形や500形に比べると低いものの、電動機を全軸に装備したことから、2基しか搭載していない380形や500形に比べると1両当たりの出力はかえって高くなり、時には梅田駅を同時発車する神戸線の900・920系に引けをとらない加速ぶりを示すことがあった。1939年には前照灯にフードを取り付けるなどの灯火管制工事を実施したが、太平洋戦争末期の空襲にも大きな被害を受けることなく終戦を迎え、戦後まもなく灯火管制用のフードなどが撤去された。1947年には歯車比を51形51 - 74と同じ24:62(1:2.58)に変更されて、1941年に同様の工事を実施された51形75以降のグループと同様、性能面では本形式と51形全車両が同一水準となった。本形式は、宝塚線とその支線である箕面線で2両から4両の範囲で編成を組んで運行されていた。しかし、1952年3月15日に実施された梅田 - 池田間及び箕面線内の大型車両運転開始の前に、神戸線から転入した600形や新造の810系と入れ替わる形で両端に本形式を置き、中間に51形の制御車である81 - 86を組み込んだ3両編成×6本を組成して、全車今津線に転出した。このときにドア部分にステップを取り付けたことから、車体幅が約2.69mに拡大されている。その後1954年と1955年には51形の610系への機器流用に際して制御車化された380形全車を81~86の代わりに中間に組み込んだ。しばらくは今津線の主力として運用されていたが、1956年2月に発生した庄内事件以降は、小型車の4両あるいは5両編成での運行が常態化したことから、両運転台で小回りがきき従来機器の互換性がなかった380・500形の両形式とも、両形式が610系製造に伴う床下機器交換で51形ベースの本形式と同等の性能になった。加えて、併結及び共通運用が可能となったことから、全車宝塚線に復帰した。この当時の宝塚線の旧型車は、前述の610系の製造や1956年から1958年にかけて登場した1200系の製造に際して形式間の床下機器交換を頻繁に行ったが、もとが51形ベースの本形式は機器交換の対象外となり、他形式がスペックを大きく変える中で唯一登場時とほぼ同じ性能を維持していた。1950年代後半から1960年代初頭にかけては本形式と380形、500形の混結で4両あるいは5両編成を組んだほか、本形式のみの4・5両編成や本形式の中間に付随車化された1形や300形を組み込んだ4・5両編成など、バラエティに富んだ編成で宝塚線及び箕面線で運用された。しかし、宝塚線への1100系や2100系の増備、神戸線への2000系増備によるに920系の宝塚線転入に伴い1961年に7両が西宮車庫に転出、再び今津線での運行を開始したほか、伊丹線や甲陽線といった神戸線の支線区での運用を開始、1963年には全車宝塚線から転出して、これらの支線区が主な運行路線となった。本形式は、1960年代後半に予定された神宝線架線電圧の直流1,500Vへの昇圧に際しては昇圧改造の対象外となり、1964年以降昇圧即応車として大量に増備された3000,3100系に置き換えられることとなった。この頃、能勢電気軌道沿線の宅地開発が急速に進み、それにつれて乗客も急増していったが、主力車両は阪急から譲渡・貸与された元新京阪鉄道のP-4・P-5形である10形の10・20形と、従来から在籍していた木造車を鋼体化した50・60形と31形であった。前者は2両連結運転できるが木造車であり、後者は鋼製車であるが直接制御車のため連結運転はできなかった。能勢電気軌道では、阪急から昇圧で余剰となる本形式をはじめとした小型鋼製車を投入することが安全面と輸送力増強の面で得策であると判断したことから、その第一陣として本形式の貸与を阪急に対して申し入れることとなった。しかし、阪急では小型車でも能勢電では初の15m車となることから、線路等の改良計画を策定するために1964年7月に330と331の2両を阪急から借り入れて入線試験を実施、所期の目的を達成したことから10月に返却された。この試運転の際には、パンタグラフをトロリーポールに変更して入線している。本形式の阪急から能勢電への貸し出しに際しては、阪急西宮工場にてステップ撤去や、標識灯の埋め込み、ジャンパ栓の内側への移設など、能勢電内の線路事情に合わせた改造を実施の上、トレーラーで西宮車庫から池田駅前駅構内へ輸送されて、1965年9月30日から同年12月までの間に全12両の搬入が完了したが、施設改良が完了していなかったことから沿線を転々と移動して、最後は建設中の平野車庫の構内に留置された。施設改良後の1966年4月に本形式の使用認可が下り、7月から10月にかけて阪急籍のまま能勢電気軌道との借り入れ契約が成立し、2両編成で能勢電での本格的な運行を開始した。本形式の投入によって、従来から在籍していた車両は川西国鉄前駅~川西能勢口駅間の区間運行に充当する51・61の2両を残して全廃された。本形式の入線当初は鼓滝駅付近の旧線区間のように道路の片隅を走る光景も見られたが、複線化や新線への移設といった線路改良が急速に進むにつれて、のどかな農村風景からニュータウン風景の中を走るようになり、編成も当初は本形式のみの2連であったものが、1968年4月からは、遅れて入線した500形と3連を組むようになり、後には本形式だけでも3連を組んだ。その後車籍が阪急にあることで阪急所有車両の平均車齢が上昇することから、阪急から能勢電に対して購入依頼があり、1973年3月1日付で能勢電気軌道に譲渡された。能勢電気軌道入線後は、大きな改造もなく使用されていたが、1975年には本形式単独で4両編成固定(合計3本)で使用される様になり、この時点で先頭車として使用されていた320・323・324・327・328・331に列車無線装置が設置され、さらに4両編成のうち2本に組み込まれていた車両1977年に320・322・324・326のパンタグラフを撤去した。昭和50年代に入ると車体の老朽化が目立ってきたことから、1979年から1980年にかけて車体更新され、同時に380・500形とともに5両編成化されることになった。この時点で列車無線が装備されていなかった321・322・325・326・329・330の6両は、運転台を撤去して中間車化され、また324と327については片運転台化された。なお322については、パンタグラフが再設置されている。車内については、客用扉の交換や車内灯の蛍光灯と袖仕切のパイプ化が行われた他、蛍光灯の取り付け等に伴い電動発電機の設置が行われ、老朽化の目立っていた屋根回りについても、ベンチレータの交換が実施された。なお、320・323・328・331の4両は更新対象から外され、2両編成で日生線専用車となったが、車内灯はグローブ式白熱灯から管球式電灯に変更された。社名が能勢電気軌道から能勢電鉄に変わっても、本形式は500形や380形、1977年以降に入線した610系とともに主力車両として走り続けた。1980年代に入ると車齢が45年を超えて老朽化が進んだこととATSの取り付けが困難なことから、1983年以降1500系への置き換えが開始され、同年8月に321・322の2両が廃車されたのを皮切りに、1984年に324 - 327・329・330の6両が廃車された。その後も未更新車4両が残っていたが、1986年12月7日に500形と組んでさよなら運転を行ったのち、同年12月20日付で廃車され、姿を消した。なお、328が平野車庫に保存されていたが、1992年に解体された。

出典:wikipedia

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