柳 時熏(りゅう しくん、류시훈、ユ・シフン、1971年12月8日 - )は、囲碁の棋士。韓国ソウル市出身、日本棋院所属、九段、大枝雄介九段門下。天元戦4期、王座戦1期、棋聖戦挑戦など。棋風は全局的に手厚く、スケールの大きな攻めと柔軟性が特長。名前は日本では日本語読みで呼ばれている。柳成龍の末裔の一族に生まれ、碁好きの両親の影響で小学5年で囲碁を始める。6年生の時に韓国少年大会で優勝。一時囲碁から遠ざかるが、中学1年で第1回世界青少年囲碁選手権大会に出場して4位。14歳で韓国棋院の研究生となり、同時期に研究生となった李昌鎬とともに田英善六段門下となる。1986年に尹奇鉉の紹介で来日して大枝門下となり、日本棋院院生となる。1988年入段。1990年に24連勝を含む42勝6敗の成績で棋道賞新人賞を受賞し、若手の中で頭角を現す。1991年に兵役免除となり、91、92年に棋聖戦四段戦で連続優勝、1992年には最高棋士決定戦に最年少で出場。同年、新鋭トーナメント戦で棋戦初優勝。1994年六段で天元戦挑戦者となり、「心の底から尊敬する」という林海峰天元との五番勝負では、23歳の誕生日である12月8日の4局目に勝って3-1とし、天元位を獲得。史上最年少で天元となる。また入段から6年8ヶ月での七大タイトル獲得は史上最短記録となった。以後3連覇する。1995年にかつてのライバル李昌鎬との特別三番碁を行い、2連敗で敗れる。1996年七段。同年本因坊戦リーグで5-2となり、プレーオフを制し、石田芳夫以来25年振りにリーグ初参加で挑戦者となる。趙治勲との七番勝負は2-4で敗れる。同年、王立誠を3-0で破って王座を獲得し、天元と合わせて2冠となり、同じ2冠の趙治勲、依田紀基と並び三強とも呼ばれた。1997年に棋聖戦挑戦者決定戦に進出し、依田紀基に0-2で敗退。2000年には小林光一に3局連続半目勝ちで天元位復帰。2002年の棋聖戦で王立誠に挑戦するが、2-4で敗れる。七段昇段後、トーナメントに専念するために大手合を休場していたが、2003年の昇段制度改訂により、天元4期・王座1期の実績で九段昇段。2010年に6年振りとなる棋聖戦リーグ入り。2013年11月、11期振り8回目となる名人戦リーグ入り。通算成績は697勝350敗(2010年4月時点)。日本棋院ネット対局サービス「幽玄の間」で 、2005年から「プロ棋士ランキング戦」を梅沢由香里とともに主宰。国際棋戦国内棋戦2002年の棋聖戦での王立誠との七番勝負第5局は、2勝2敗の後の2月20、21日に行われた。二日目の終局直前、ダメ詰めを残すのみとなった段階で先番の柳が盤面9目の優勢と目されていた。298手目(この時点ですでにダメ詰めに入っていた)に王が6子へのアタリを打ったが、柳は299手目にそれを継がなかったため、王は「僕は終わったとは言ってない」と言って、立ち会い人の石田芳夫を呼んだ。石田と主催者読売新聞社が協議し、ビデオも確認して、終局の合意はされていないと認め、王はアタリの6子を抜き、柳はここで投了した。この時について後に王は、「くたくたの精神状態」の中で「誰が悪いのではなく」起きてしまったことと言い、柳は「集中力を切らした自分が悪い」「でも第7局じゃなくてよかった」と述べた。次いで柳は第6局も敗れ、棋聖位獲得はならなかった。この事件は、囲碁界で初めてビデオを用いた裁定となり、終局時のルールやマナーに関する議論も巻き起こした。
出典:wikipedia
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