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瑞鳳殿

瑞鳳殿(ずいほうでん)は、仙台市都心部の南西、広瀬川の蛇行部に挟まれた経ケ峯にある伊達政宗を祀る霊廟。戦災で全焼したが、復元され現在の姿となった。この記事では、周囲の「経ケ峯歴史公園」内にあり、「経ヶ峯伊達家墓所」として仙台市指定史跡となっている伊達家の他の霊廟や付属施設も記載する。仙台藩初代藩主・伊達政宗は生前に、自らの死後、遺骸を仙台城下町南西縁にある経ケ峯に葬ることを遺言し、1636年(寛永13年)没した。経ケ峯は仙台城本丸(標高約115m、)と同様に青葉山段丘にあるが、仙台城本丸がある青葉山から見て東方向、広瀬川が形成した河岸段丘による谷を挟んで直線で900mほど離れており、標高70m級の峰がある。政宗の後を継いだ第2代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言に従い、翌1637年(寛永14年)10月、政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を経ケ峯の東部に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建立し、「瑞鳳殿」と命名した。同年、瑞鳳殿の隣接地に政宗の菩提寺として「瑞鳳寺」()も創建され、仙台藩領・平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像を本尊とした。瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇った。その後、第2代藩主・忠宗を祀る「感仙殿」(かんせんでん)、および、第3代藩主・綱宗の「善応殿」(ぜんのうでん)が共に経ケ峯の西部に建立されたが、両者は瑞鳳殿と相対するように正面が東向きになっている。1931年(昭和6年)に瑞鳳殿は国宝に指定されたが、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月10日にアメリカ軍による戦略爆撃(仙台空襲)を受け、瑞鳳殿・感仙殿・善応殿は総て焼失した。戦中・戦後の仙台では、空襲による樹木の焼失に加え、食料不足・エネルギー不足・住宅不足から市街地周囲の森林が伐採され、薪・炭や木造住宅資材にされたり、開拓して農地や住宅地へ転用されたりする例が多くみられた。市は「杜の都」の復興を目指し、大年寺山において仙台市野草園の建設に着手する一方、歴史的建造物が焼失したものの樹木の伐採は逃れた経ケ峯の保存を期し、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)にかけて、買収および寄付により当地の所有権を伊達家から得た。高度経済成長期に瑞鳳殿再建の機運が高まるが、埋れ木細工の材料採取や木桶風呂(鉄砲風呂)の燃料採掘のため経ケ峯を含む青葉山段丘では幕末から亜炭坑道が発達したため(仙台亜炭参照)、瑞鳳殿址でも至る所が陥没する鉱害が発生していた。そのため、臨時石炭鉱害復旧法に基き、1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて瑞鳳殿址の地盤安定化工事を施工した。瑞鳳殿再建工事に先立ち、経ケ峯を「霊屋風致地区」および「霊屋保存緑地」に指定。さらに1974年(昭和49年)に瑞鳳殿址の発掘調査を行うと、政宗の遺骨や副葬品などが出土した。1979年(昭和54年)、瑞鳳殿の本殿・拝殿・涅槃門・御供所が再建され、翌1980年(昭和55年)に瑞鳳殿資料館が新設された。1985年(昭和60年)には、感仙殿および善応殿も再建された。1987年(昭和62年)、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送されると「政宗ブーム」が起きた。仙台には東北新幹線(1982年開業)で観光客が大勢訪れ、1986年(昭和61年)に仙台城三の丸で新築された仙台市博物館と共に、瑞鳳殿は仙台市における重要な観光施設となった。なお、第4代藩主以降は、主に大年寺山の茂ヶ崎城跡近くの伊達家墓所()に埋葬されているが、例外として江戸で死去した伊達周宗(第9代藩主)と伊達斉義(第11代藩主)は、当地の「妙雲界廟」(みょううんかいびょう)と呼ばれる一角に墓がある。かつての住所は「仙台市越路瑞鳳寺前丁20番地」。1966年(昭和41年)の住居表示実施により「仙台市霊屋下」に変更され、1989年(平成元年)の政令市移行に伴って現在の住所となった。「霊屋」(おたまや)とは瑞鳳殿のことであり、「霊屋下」は瑞鳳殿の麓を示すものであるが、瑞鳳殿に隣接する事務所の住所にも使用されている。公益法人の業務・財務に関する情報公開によって公表された近年の瑞鳳殿観覧者数は以下の通り。

出典:wikipedia

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