マット・ホリデイ(Matthew Thomas Holliday, 1980年1月15日 - )は、アメリカ合衆国・オクラホマ州スティルウォーター出身のプロ野球選手。ポジションは、外野手(主に左翼手)。右投右打。MLB・セントルイス・カージナルスに所属している。 1980年1月15日にアメリカ合衆国オクラホマ州スティルウォーターで誕生。父のトム・ホリデイはカレッジベースボールの強豪校として知られるオクラホマ州立大学でかつてヘッドコーチをしており、叔父のデーブ・ホリデイはロッキーズのスカウトを務めるなど、ホリデイ家は "野球一家" だった。スティルウォーター高校に在学中、野球とアメリカンフットボールの両方で活躍。アメリカンフットボールのクォーターバックとしてオクラホマ州立大学へ進学する予定だったが、1998年のMLBドラフト7巡目(全体210位)でロッキーズに指名され、野球のプロ選手の道へ進む。その時の契約金は7巡目指名ながら840,000ドル。さらに7年分の年俸保証700,000ドルという条件も付いていた。マイナーリーグでは三塁手としてプレイしていたが、2001年に右肘を傷めてトミー・ジョン手術をし、その後は左翼手に転向。メジャーデビューを果たしたのは入団から6年経った2004年4月16日のカージナルス戦で、その試合では3打数無安打に終わった。しかしこの年は計121試合に出場し、打率.290・14本塁打・57打点を記録、新人王投票でも5位に入った。2005年は前年とほぼ同じ125試合出場ながら、打撃3部門全てで1年目を上回る成績を記録。さらに俊足も発揮し、14盗塁を記録した。翌2006年のシーズン前には、2006 ワールド・ベースボール・クラシックにアメリカ合衆国代表として出場。さらにMLBのレギュラーシーズンでも自身初の30本塁打・100打点など前年を上回る成績を残した。オールスターにも初選出された。チームの主砲となったホリデイは、2007年に自己最高のシーズンを送る。開幕直後は5番打者として、5月に入ると3番打者として出場。ほとんどの記録でキャリアハイを更新し、打率・打点・安打・二塁打・塁打の5部門でリーグ1位となった。9月にはホリデイが月間MVPを受賞する活躍をすると、その間にチームは11連勝を含む20勝8敗を記録し、レギュラーシーズン終了時点でナ・リーグ西地区で2位のパドレスと並んだ。ポストシーズン進出を賭けたパドレスとのワンゲーム・プレーオフで6打数2安打2打点を記録、そしてロッキーズは延長13回に2点差を逆転するサヨナラでパドレスに勝利しプレーオフ進出を果たした。ホリデイ自身も2打点を上げたことでライアン・ハワードを逆転し、打点王を獲得。このことはワンゲーム・プレーオフがレギュラーシーズンに含まれる制度による恩恵を受けた例として取り上げられる。さらに首位打者にも輝き、MVP投票ではジミー・ロリンズに次ぐ2位だった。1月18日、ホリデイは2年間2300万ドルでロッキーズと契約延長した。5月25日、左ハムストリングを痛めたことによりホリデイは6月10日まで故障者リスト入りすることになった。7月6日、ホリデイは3年連続でオールスターゲームに選出された。ファン選出されたアルフォンソ・ソリアーノが故障したことにより、先発出場することになった。当日のオールスターゲームでは右翼手として出場し、この試合の初得点となるソロ本塁打を放った。この年は故障者リストに入っていたこともあって過去2年より少ない139試合出場に終わった。成績は打率.321、173安打、25本塁打、88打点、107得点、290塁打を記録。この活躍が認められ3年連続でシルバースラッガー賞を受賞し、28盗塁と出塁率.409はキャリアハイだった。盗塁はこの年の左翼手ではメジャー3位、出塁率は同じく左翼手でメジャー2位だった。シーズン終了後の11月14日、ヒューストン・ストリート、グレッグ・スミス、カルロス・ゴンザレスとの1対3の交換トレードによりオークランド・アスレチックスに移籍した。は4月の打率が.240と低迷していたが、7月には打率が2割8分まで上昇した。しかし、チームは地区最下位に低迷し、ホリデイはラジオのインタビューで、「またプレーオフでプレーしたい。もしこのチームで不可能なら僕の代わりにいい選手を獲ってもらいたい。それによって僕がプレーオフの可能性のある球団でプレーできるなら問題ない」とトレードを容認する発言をした。そして、7月24日にブレット・ウォレス、クレイトン・モーテンセン、シェーン・ピーターソンに加えアスレチックスが150万ドルを負担する3対1の交換トレードでセントルイス・カージナルスへ移籍した。カージナルス移籍後、63試合の出場で打率.353・13本塁打・55打点を記録し、チームはホリデイ移籍後、39勝25敗を記録し、3年ぶりに地区優勝を果たした。しかし、ロサンゼルス・ドジャースとのディビジョンシリーズでは打率.167(12打数2安打)と低迷し、チームも3連敗で敗れ、シーズンを終えた。シーズン終了後、FAを宣言し、代理人のスコット・ボラスはマーク・テシェイラの8年総額1億8,000万ドル規模の契約を要求したが、1月7日にカージナルスと7年総額1億2,000万ドル、8年目は1,700万ドルの球団オプションの契約に合意。アルバート・プホルスの7年総額1億ドルを上回る球団史上最高額の契約となった。2010年は4月に5試合連続無安打の時期があったものの、それ以降は波なく好成績を残した。打率、OPSはどちらもリーグ5位の.312、.922をマークし、守備でもプラス・マイナス・システム、守備防御点でリーグ2位の+14、+8、補殺はリーグトップの8を記録した。は怪我に苦しんだシーズンとなった。まず開幕直後に盲腸炎となり1週間欠場。6月には左の大腿四頭筋の炎症で半月欠場。9月中旬には左手中指の腱に炎症が出て10日間欠場し、ポストシーズンも5試合欠場した。しかし5月6日まで4割を維持するなど成績自体は例年並みで、打率、出塁率、長打率は微減に留まった。また、自身初のワールドシリーズ制覇を経験した。は、目立った怪我もなく一定の成績を維持した。、打率.300・22本塁打・94打点という打撃成績をマークしたほか、103得点と6盗塁を記録。打率が3年ぶりに.300の水準に回復し、得点が100を超えたのは実に5年ぶりの事だった。盗塁成功率は86%を誇り、数こそ少なかったものの高い盗塁技術を見せた。、156試合に出場して打率.272・20本塁打・90打点という成績を残した。9年連続で20ホームラン以上をクリアし、打点は3年連続で90打点以上を達成。2011年以降マイナス続きだった守備防御点は±0とし、久々にマイナスを回避した。は好調を維持し、オール・スターにも選出されたが、故障の為に出場辞退した。故障の影響もあって73試合の出場に留まり、ルーキーイヤー以来となる規定打席未達に終わった。打率.279・4本塁打・35打点という成績だった。打撃センスには天性のものがあり、コロラド・ロッキーズ時代はトッド・ヘルトンに代わって主砲の地位を揺るぎないものにした。クリント・ハードル監督がホリデイのことを「パワーを備えた巧打者」と称しているように、パワーヒッターでありながら安定したバットコントロールを兼ね備えている。広角に打球を打ち分けることで安打を量産し、長打になるほどその傾向が強まるという特徴を持っている。ロッキーズ時代のホリデイの打撃成績は、「極端な打者有利」とされる本拠地球場クアーズ・フィールドとその他の球場では大きな差があった。以下に、本拠地とその他の球場での打撃成績を表にして示す。数字は2007年までのもの。それでもFOXSportsが「本拠地のアドバンテージを抜きにしても、ホリデイは(2008年1月時点で)メジャーで一番多くの得点を生み出す左翼手である」と、その打力を評価した通り、カージナルス移籍後もハイレベルな成績を維持している。巨体に似合わず走塁面でも高い能力を秘めており、5年連続で2ケタ盗塁を記録している。守備面では守備範囲が狭く、粗さが目立つが、年々失策は減少傾向にある(7→7→6→3)。2007年は守備率メジャー1位、最少チーム失策数を記録したチームの守備陣の一人としてリーグ優勝に貢献した。慎ましい性格で知られ、その謙虚な姿勢からファンやチームメイトの信頼は厚い。2007年のリーグチャンピオンシップシリーズでMVPを受賞した際にも「この賞はおれのものではない。みんながもらうべき。25等分できたらいいのに」と語っている。またホーム試合には自身の子供を連れていき、試合後は一緒に室内打撃練習場に行くという微笑ましい光景がよく見られる。2012年1月には、ドラフトの上位指名4選手に直接メールを送り、セントルイスに招待した。交通費とホテル代はホリデイが持ち、昼は一緒にトレーニング。夜は自宅に招いて妻の手料理をご馳走したり、ホッケーの試合を観戦したり、デビッド・フリースやマット・カーペンターを紹介するなどして交流を深めた。
出典:wikipedia
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