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ダンスホールレゲエ

ダンスホール・レゲエ(Dancehall Reggae, または略してダンスホールDancehall)は、1970年代後半に、ジャマイカのサウンドシステム文化の中で生まれたポピュラーミュージックのひとつ。 1980年代以降イエローマン、スーパーキャット、ブロ・バントンなどのDJによって人気を広げていった。ダンスホールは、転調や展開のほとんどないリディムに即興で言葉を乗せて歌ったりトースティングしたりするDJが代表的スタイルであるが、一方同様のリディムでシンガーが歌を歌ったものもダンスホールと呼ぶ。したがってはっきりと定義できるような概念はないといってよい。ダンスホールのリディムは通常ルーツ・ロック・レゲエよりもはるかに速く、演奏はドラムマシンやサンプラーなどの打ち込みによって制作される。ダンスホールの歌詞は一般的に、スラックネス(下ネタ)など、それまでのジャマイカの音楽よりも俗っぽい内容が多く、現在のジャマイカ音楽の主流である。1970年代後半から1980年代初期のダンスホールは、生楽器の演奏によるヒューマン・トラックが主であり、まだ完全にデジタル化していなかった。チャンネル・ワンレーベルではリヴォリューショナリーズ(スライ&ロビーが在籍していた)が活躍し、無機質なリズムと強靭なループに磨きをかけていた。1980年頃は、ピーター・トッシュのワールドツアーでリヴォリューショナリーズが留守がちになり、代わりにルーツ・ラディックスも起用された。チャンネル・ワンのミキシング技術は驚くべきものがあり、16トラックの最新の録音機材で作られるダブやバージョンは80年代中頃までのダンスホールのシーンをリードした。それにイエローマンなどのDJがトーストし、当時としては画期的な「ワン・ウェイ物」(アルバムすべての曲が同じリディムという形式の作品)を多く出すことによって、リディムそのものを聴衆に認識させていった。1979年にはドラムマシンを用いたデジタルサウンドが既にリリースされていたが、チャンネル・ワンのクオリティとは比べられるものではなかった。アーティストに関して言えば、特にDJはこの時代に、現代に続くスタイルが確立されたと言ってもよい。この時代のアーティストは、基本的にレコーディングよりもラバダブ(Rub A Dub)と呼ばれる、サウンドシステムでの即興セッションに活動の重点を置いていた。その中で前述のイエローマンは空前の人気を博し、DJとして初めてメジャー・デビューまで果たした。しかし、特に重要なアーティストはブリガディア・ジェリーやニコディマス、ブロ・バントンやジョジー・ウェイルズらである。彼らのスタイルはそれまでの「喋る」ようなDJスタイルを変えてしまい、多くのDJたちがその影響を受けた。すでに売れていたシンガーであるグレゴリー・アイザックス、ジョニー・オズボーン、シュガー・マイノットらは、この時代から徐々にダンスホール・レゲエへと移行していった。キング・ジャミーのプロデュースによる、1985年の大ヒット曲ウェイン・スミスの「アンダ・ミ・スレン・テン」(Under Me Sleng Teng)は、当時のレゲエ界に旋風を巻き起こした。この曲のリディムはカシオトーンを用いて作られた非常にシンプルかつデジタルなもので、「スレン・テン」と名づけられ、キング・ジャミーの人気を大きく上げることとなった。他のプロデューサー達は、すばやく同じリディムを用いたバージョンを、何十人もの違ったDJやシンガーを使ってリリースした。このヒットを境に、キング・ジャミーは、デジタル・サウンドに早い時期から取り組んでいたスティーリー&クリーヴィー(キーボード奏者のワイクリフ・ジョンソンとドラマーのクリーヴランド・ブラウニー)を起用し、ヒット作を連発する。一方で、プロデューサーであるジョージ・パンはスライ&ロビーを率いて「パワー・ハウス」レーベルを立ち上げ、独特のサウンドを確立していた。この時代からしばらく、リディムメーカーとしてのスティーリー&クリーヴィーとスライ&ロビーの時代が続くこととなる。一方、リー・ペリーやキング・タビーといった1970年代から活躍するエンジニア達もこぞってデジタル化した作品をリリース。ダンスホールは、完全に「デジタル化」することになる。これを通称「コンピュータライズド・レヴォリューション」(Computerized Revolution)と呼ぶ。1970年代後半〜1980年代前半から活躍するアーティストの中には、この波に乗り切れず影をひそめてしまったものもいたが、ブリガディア・ジェリーやニコディマスらはうまく時代に乗って相変わらず高い人気を博していた。この時代には、彼らの影響を受けたスーパーキャットやタイガーらも新たに台頭してきた。シンガーでは、テナー・ソウやニッティ・グリッティといったアーティストが、わざとキーを外して歌うという「アウト・オブ・キー」(Out of key)唱法を確立、大きな人気を博した。また、前述のジョニー・オズボーンやリロイ・スマートといったベテランに加え、リトル・ジョンやココ・ティーといった新たなシンガーも出てきたが、彼らはシンガーにもかかわらずDJのような節回しを取り入れる「シングジェイ」(Singjay)唱法を確立した。シュガー・マイノットは私財を投げ打って「ユース・プロモーション」レーベルを立ち上げ、若手の育成に尽力。テナー・ソウやリトル・ジョンらもこのプロモーションからの成功者であった。この時代、ダンスホールはデジタル化に拍車がかかり、トラックは完全に打ち込み中心となってしまった。1992年ころまではサウンド・システムでのラバダブがまだ続けられていたが、警察によるダンスへの介入などが多くなり、屋外ダンスが徐々になりを潜めていくと同時に、アーティストの出演料が上がってしまったことなどから衰退していった。そのため、ダンスホール・アーティストはレコーディングとステージショウが主な仕事となり、そのスタイルも変化していく。1980年代中盤より活躍していたタイガー、スーパーキャットなどのアーティストは、それまでのスタイルをうまくデジタルサウンドに乗せて高い人気を誇っていた。また、彼らの次の世代に当たるニンジャマン、シャバ・ランクスといった世代のDJ達は、ラバダブで下積みをした最後の世代である。この時代になると、多くのDJたちが歌う歌詞は暴力的で卑猥になり、フロウもデジタル・リディムに合わせてより早くなっていった。ファッションも非常にきらびやかになり、過剰ともいえる衣装が観客の目を奪っていた。1990〜1992年までは、シャバとニンジャの2台巨頭時代であったが、1993年にブジュ・バントンが登場したことによりその均衡は破れ、新たな時代へと突入することになった。ブジュはラバダブで下積みをせず、レコーディング・アーティストとして育てられてきたアーティストであった。一種伝統芸能のように続けられてきたDJ稼業はここに来てアイドル化し始める。また、同時期に同様に出てきたアーティストとして、バウンティ・キラー、ビーニ・マン、スプラガ・ベンツらがいる。ただし、ビーニは9歳のころからDJをしていたため即興もこなせる器用なアーティストであり、その点が他の若手とは異なっていた。一方で、1992年ころからはガーネット・シルクの登場によりラスタファリ・ムーブメントが急激に加熱した。彼はトニー・レベルらとともに他のアーティストに大きな影響を与え、「ボブ・マーリーの再来」とまで言われたが、不幸にして1994年に自宅の火事に巻き込まれ不慮の死を遂げた(一般的には暗殺と信じられている)。彼らの影響により方向転換をしたアーティストは数知れず、下ネタで人気を博していたブジュ・バンタンやケイプルトン、スプラガ・ベンツらもラスタファリズムに改宗し、方向性を180度変えてしまった。ジャマイカ国外に目を向けると、1990年代初め、ドーン・ペンの「No, No, No」、シャバ・ランクスの「Mr. Loverman」、チャカ・デマス・アンド・プライヤーズの「Murder She Wrote」が、アメリカ合衆国と海外での最初のダンスホールレゲエのメガヒットとなった。この時代はバウンティ・キラーとビーニ・マンの2台巨頭時代といえる。この2人はあふれんばかりの才能で驚くほど大量のシングルをリリースし、ダンスホールシーンをリードした。シリアスな路線ではブジュとケイプルトンに加え、ルシアーノ、シズラ、アンソニー・Bらがガーネットの後を継ぐような形で現れ、ラスタ路線も非常に活性化した。1993年ごろからバウンティとビーニのビーフが加熱し、互いのファンの殺傷事件にまで発展。互いにビーフに関して自粛を余儀なくされる。スラックネスをひっぱていたブジュとケイプルトンはラスタに転向、折りしもラスタ・ムーブメントの台頭著しいときでもあり、ダンスホール界全体がそれまでの「バッドネス」「スラックネス(下ネタ)」中心の流れからラスタの方向に流れていった。それを決定付けたのが1994年暮れのガーネットの死であった。しかし、1年後の1995年暮れ、低迷していたニンジャマンが突如として復活、年末に行われる「スティング」のステージでのクラッシュでマッド・コブラを破ると、ニンジャの全盛期を知らない若者までを巻き込み再びバッドネス・ブームを再燃させた。そのため、シーンはバッドネスとラスタの完全2極化が起こった。1990年代後半に入ると、アップタウンのサウンドシステムがヒップホップを頻繁にかけ出したり、バウンティがヒップホップアーティストとのコラボレーションを推し進めたため、ダンスホールもかなりその影響を受けるようになった。その波にのって1997年ころ頭角を現したのがショーン・ポールやMr.ヴェガスらといった現在まで活躍しているアーティストである。特にショーン・ポールは、ドン・ユーツと並び、これまでで初めてと言ってもよいアップタウン出身のアーティストであり、その垢抜けたスタイルで一気にファンを増やした。2000年代に入ると、アメリカのヒップホップアーティストとの共演によってブレイクするアーティストが増えていった。同時にバルバドス出身のリアーナのようにヒップホップやR&B出身のアーティストがダンスホールレゲエを取り入れた曲をヒットさせるということも増えた。エレファント・マンやショーン・ポール、ミスター・ヴェガス、ベイビー・シャム、シズラらが国際的な活躍を見せている。特にショーン・ポールはビルボードトップ10の常連であり、ジャネット・ジャクソン、ジャスティン・ティンバーレイク、ネリーといったアーティストと共演している。ベテランアーティストであるジュニア・リードも50セントやミムス、アリシア・キーズとの共演を機に再ブレイクし、ボブ・マーリーの息子であるダミアン・マーリーもヒップホップを取り入れた音作りでブレイクした。ヴァイブズ・カーテルは、明らかにヒップホップに影響を受けたフロウ、ユーモアあふれる歌詞で人気である。ジャマイカ国内に目を向けると、T.O.Kやワード21に代表される新世代のコーラスグループの隆盛や、バウンティ・キラー率いる「スケアデム」、「アライアンス」をはじめとする「クルー・ビジネス」の流行、ダンサーであるディンドンやセレクターであるトニー・マタランが歌った楽曲のヒット、さらにはジャマイカ・ローカルテレビ局の番組企画で結成されたパッセンジャー7やマイスペースをきっかけにしたショーン・キングストンのヒット等もそれ以前には見られなかったこの時代の特徴といえる。また、音源制作における機材もさらに進化して行きコルグ・Mシリーズやローランド・Fantomシリーズ、AKAI professional、Pro Toolsなどが使われるようなる。これにより古典的な卓ミキサーを備えたスタジオは必要とされなくなっていき、スタジオ・ワン、ペントハウスなどの名門スタジオも閉鎖や規模の縮小を余儀なくされた。その一方で、そうしたダンスホールレゲエのDTM化はスティーブン・マクレガー、セラーニやデマルコら先進的な音作りをするプロデューサー兼任アーティスト達の登場を促した。思想的には2007年頃より人気を拡大させたマヴァード、ムンガの二人は共にラスタファリアンでありながらギャングスタでもある「ギャングスタ・ラス」というパーソナリティを売りにし、暴力的な歌詞で人気を博している。シズラ、スプラガ・ベンツらベテランラスタアーティストの先鋭化も相まって90年代半ば以降顕著であった「バッドネスとラスタの二極化」状況は変化した。

出典:wikipedia

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