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遠州流

遠州流(えんしゅうりゅう)は小堀政一(遠州)に始まる小堀家本家に伝わる武家茶道の一派である。宗家は東京都新宿区にあり、財団法人として小堀遠州顕彰会、同門組織として茶道遠州会がある。また小堀遠州流(こぼりえんしゅうりゅう)は遠州から弟の小堀正行に分かれた流派で、家元は東京都練馬区にあり、同門組織は松籟会という。遠州流は武家茶道の代表とも言える流儀で、紹鴎・利休と発展した質素で内省的な「わび」「さび」の茶道に、織部を経て遠州独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風を特徴とする。織部を武家らしい華やかさとすれば、遠州は茶の湯の心を用いて自然な雅やかさを加えたものと言える。小堀遠州は羽柴秀長の家老を務めた小堀正次の子で名は正一といい、若い頃から古田織部のもとで茶の湯を学んだ。慶長9年(1604年)26歳のときに父正次が急死し、家督を継いで松山城を預かり、その後元和2年(1617年)に朱印状を得て大名となり2年後近江小室藩に移封される。遠州の通り名は慶長13年(1608年)駿府城修築の功績によって遠江守に任ぜられたことによるが、これ以外に後陽成院御所造営、名古屋城天守閣の修築、松山城の再建など、各地で建物の新造・修繕を務め建築家・造園家として名を馳せた。冷泉為満・為頼父子、木下長嘯子に和歌を学び、藤原定家風の書を身につける文人でもあった。茶人としては生涯で400回ほどの茶会を催し、茶入、茶碗、花入などを多く作製したほか、審美眼に優れ東山御物などから優品を選定しこれらは後に中興名物と呼ばれるようになる。利休・織部の茶風に桃山時代の気風を取り入れた「綺麗さび」と呼ばれる茶風に達し、3代将軍家光の茶道師範を務めた他、諸大名、公卿、僧侶などに茶道を指導した。5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人である。しかし7世正方は田沼意次のもとで大番頭や伏見奉行の要職を務めたが、伏見騒動によって天明8年(1788年)改易されることになる。ここに大名家としての小堀家は断絶することになった。8世正優は6世正寿の子で、幼少の頃に小堀家が改易されたが、文政11年(1828年)に300俵小普請組の旗本として迎えられ、親族へ引き渡されていた伝来の道具なども戻して本家を再興した。尾張徳川家第12代・徳川斉荘に招かれて目利きを行い、その城代家老竹腰篷月に相伝するなど、大名旗本、公家などに幅広く茶道教授を行い遠州流中興と称せられる。10世宗有のとき、明治維新により士族となり、遠州流の茶道を広く一般に教授することになる。遠州の弟小堀正行は1,000石の小姓組であったが、遠州が家督を継ぐ時に2,000石の分知を受けて、都合3,000石の旗本となった。明治頃から本家とは疎遠になり、昭和34年(1959年)15代宗通が独立を申し入れて小堀遠州流を称するようになった。小堀本家は近江小室藩1万石余りを預かる大名であったが、7世政方のときに改易となった。その後8世正優が旗本として召し抱えられ本家を再興した。小堀遠州流を伝える分家は遠州が家督を継ぐ時に弟小堀正行に分知したのが始まりで、6代政郷までは遠州傍系であったが、7代政報・8代政展は本家から迎えた養子であり、以来血脈としては遠州直系となる。小堀仁右衛門家は600石の旗本で、代々京都代官を務め主に禁裏の作事を担っていた。

出典:wikipedia

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