


デビッド・アダム・ラローシュ(David Adam LaRoche, 1979年11月6日 - )は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州オレンジ出身(カンザス州育ち)の元プロ野球選手(一塁手)。左投左打。父親は1970年代にカリフォルニア・エンゼルスでクローザーを務めていたデーブ・ラローシュ。また、弟のアンディ・ラローシュもプロ野球選手で、かつては共にピッツバーグ・パイレーツに所属していたこともある。のMLBドラフト18巡目(全体550位)でフロリダ・マーリンズから指名されたが、フォート・スコット・コミュニティカレッジへ進学した。のMLBドラフト42巡目(全体1254位)で再びマーリンズから指名されたが、セミノール短期大学へ編入した。のMLBドラフト29巡目(全体880位)でアトランタ・ブレーブスから指名され、6月21日に契約。ルーキー級ダンビル・ブレーブスで56試合に出場し、打率.308・7本塁打・45打点・4盗塁だった。はA+級マートルビーチ・ペリカンズで126試合に出場し、打率.251・7本塁打・47打点・10盗塁だった。はA+級マートルビーチとAA級グリーンビル・ブレーブスでプレー。同球団では45試合に出場し、打率.289・4本塁打・19打点・1盗塁だった。オフの11月23日にブレーブスとメジャー契約を結び、40人枠入りを果たした。2月18日にブレーブスと1年契約に合意。この年はAA級グリーンビルとAAA級リッチモンド・ブレーブスでプレー。AAA級リッチモンドでは72試合に出場し、打率.295・8本塁打・35打点・1盗塁だった。オフにはブレーブスの最優秀マイナーリーガーに選出された。は開幕ロースター入りを果たし、4月7日のニューヨーク・メッツ戦でメジャーデビュー。6番・一塁として先発起用され、4回に1イニング2安打を記録。メジャー初安打と2安打目を同じ回に記録したのは、メジャー史上4人目、のチャド・クルーター以来。ナショナルリーグでは史上初の快挙となった。5月15日にはメジャータイ記録となる1試合4二塁打を記録。5月28日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で左肩の脱臼し、翌日故障者リスト入りした。7月2日にメジャー復帰を果たし、後半戦は引っ張るバッティングからコースに逆らわないバッティングへ変えた。9月にはシーズン最高となる月間で打率.348・5本塁打・16打点を記録。この年は新人ながら110試合に出場し、打率.278・13本塁打・45打点だった。2月25日にブレーブスと1年契約に合意。フリオ・フランコを上回る141試合に出場し、打率.259・20本塁打・78打点だった。は前年オフにフランコがメッツへ移籍したため、ツープラトン起用から解放され、開幕から正一塁手として定着。前半戦こそ、打率.251・13本塁打と低調だったものの、後半戦に入ると打率.323・19本塁打と復調した。結局、シーズントータルで打率.285・32本塁打・90打点をマーク。この年の30本塁打はブレーブスの一塁手としては、フレッド・マグリフ、アンドレス・ガララーガに次ぐ球団史上3人目の快挙となった。1月19日にマイク・ゴンザレス、ブレント・リリブリッジとのトレードで、ジェイミー・ロマックと共にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。2月2日にパイレーツと1年契約に合意した。この年は打率.272・21本塁打・88打点と前年より悪化したが、苦手としていた左投手はミートに徹し、対左投手打率.299と対右投手打率.262を上回った。1月15日にパイレーツと500万ドルの1年契約に合意。7月31日にはロサンゼルス・ドジャースに所属していた弟のアンディがマニー・ラミレス、ジェイソン・ベイらとの三角トレードで、パイレーツへ移籍。兄のアダムは故障者リスト入りしていたため、8月14日に初兄弟出場を果たした。アダムとアンディは今まで同一チームでプレーしたことがないため、ラローシュ兄弟が生まれて初めて同一チームでプレーすることになった。この年は136試合に出場し、打率.270・25本塁打・85打点・1盗塁だった。1月20日にパイレーツと705万ドルの1年契約に合意。開幕後は87試合に出場し、打率.247・12本塁打・40打点・2盗塁だった。2009年7月22日にハンター・ストリックランド、アルヘニス・ディアスとのトレードで、ボストン・レッドソックスへ移籍。移籍後は6試合に出場し、打率.263・1本塁打・3打点だった。2009年7月31日にケイシー・コッチマンとのトレードで、古巣・ブレーブスへ移籍した。移籍後は57試合に出場し、打率.325・12本塁打・40打点だった。この年は3球団合計で150試合に出場し、打率.277・25本塁打・83打点・2盗塁だった。守備では2失策に抑え、守備率.999を記録した。オフの11月5日にFAとなった。1月15日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと450万ドルの1年契約(2011年・750万ドルの球団オプション付き)を結んだ。この年は自己最多の172三振を記録してしまったが、3年連続で25本ちょうどの本塁打を記録。また、自身初のシーズン100打点も記録した。オフの11月2日にダイヤモンドバックスが球団オプションを破棄したため、FAとなった。1月7日にワシントン・ナショナルズと総額1600万ドルの2年契約を結んだ(2013年は1000万ドルの球団側・選手側とも行使権のあるオプション、さらに100万ドルのバイアウト(契約破棄権)付き)。開幕後の5月23日に左肩の故障で15日間の故障者リスト入りし、6月に左肩の手術を受けた。9月3日に60日間の故障者リストへ異動した。この年は故障の影響で43試合にとどまり、打率.172・3本塁打・15打点・1盗塁と自己最低の成績となった。は154試合に出場し、自己最多の33本塁打に2年ぶり2度目の100打点を記録して完全復活。シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞もともに初受賞した。オフの11月1日に複数年契約を希望するため、ラローシュは1000万ドルのオプションを破棄し、FAとなった。その後ナショナルズはクオリファイング・オファーを提示したが、11月9日に拒否した。1月8日にナショナルズと総額2400万ドルの2年契約(2015年の球団側・選手側とも行使権のあるオプション付き)で再契約した。2年連続で150試合以上となる152試合に出場したが、打率.237・20本塁打・62打点と成績を大幅に落とした。これは、ADDの治療薬が体に合わず、体重が大幅に減ったのが原因とされる。打撃不振だったが、3三塁打(自己ベストタイ)、4盗塁(自己ベスト)とスピード面で一定の成績を残した。しかし、初めて二塁打が20本未満(19二塁打)に終わった。守備でもDRS+1だったが、自己ワーストタイの11失策、レンジファクターは初めて9点を下回る8.77と、プレー全体的に精彩を欠いた。は140試合に出場して打率.259・26本塁打(リーグ7位)・92打点(リーグ5位タイ)と復活を遂げ、主砲としてチームのプレーオフ進出に大きく貢献した。シーズン25本塁打以上を記録したのは自身6度目、90打点以上を記録したのは自身4度目の事である。また、自己最多の82四球を選び、出塁率.362は自己ベストの数値である。走塁面では失敗ゼロで3盗塁を決め、前年に成長の跡を見せた能力を維持した。守備は、2年ぶりに失策を1ケタに減らし(11失策→7失策)、守備率も例年通りの.994に戻したが、レンジファクターは8点台のままだった。オフの10月30日にナショナルズが1500万ドルのオプションを破棄したため、FAとなった。2014年11月25日にシカゴ・ホワイトソックスと総額2500万ドルの2年契約を結んだ。は指名打者及び一塁手として起用され、127試合に出場した。だが打撃不振に陥り、打率.207・12本塁打・44打点という成績は、いずれも長期離脱した2011年に次ぐ自己ワースト2位の数字だった。守備面では、48試合で一塁を守って1失策・守備率.997・DRS - 1という成績で、DRSこそマイナスだったものの、堅実さは見せた。また、1試合でマウンドに登る機会もあり、メジャー12年目にして投手デビューを飾った。1イニングを投げ、奪三振1を記録した。マイナーリーグ時代にも2試合の登板機会があり、メジャーを含め3試合を無失点、毎試合奪三振を記録している。2016年3月、息子の帯同を巡って球団と対立し引退を発表した。打撃面での特徴はパワー。2005年に初めて規定打席に到達して以来、2010年まで6年連続で20本以上のホームランを放っており、うち30本以上放ったシーズンが2度ある。打率はそれほど低くはないが、三振が多く、例年120以上の三振を喫している。足は速くなく、毎年盗塁を記録しても1個ないし2個程度である。守備面では、2010年と2013年に11失策を記録したものの、メジャーデビュー以来、毎年.990以上の守備率を残し続けているが、総合的に年々守備成績は下降線をたどっている。
出典:wikipedia
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