日田城(ひたじょう)は、豊後国日田郡在田郷城内村(現在の大分県日田市北豆田慈眼山公園とその一帯)にあった日本の城である。大蔵城、鷹城、高城ともいう。古代・中世から近世初頭にかけての大蔵氏流日田氏および大友氏流日田氏の山城および居館である。仁寿2年(852年)に鬼蔵大夫永弘が創建したと伝えられ、山上に段状の曲輪を構え、絶壁を花月川に面し、南麓に居館を構えて山城の典型を採っていた。また日田城の西端には、大蔵永季が父・永興を供養するために建立した慈眼山永興寺(じげんざんようこうじ)があった。日田城の廃城時期や経緯は不明である。慈眼山遺跡発掘調査では慈眼山麓の上城内町において、15世紀後半から16世紀中ごろまでに形成された、屋敷跡と推定される建物跡遺構が出土し、この建物群の廃絶は16世紀後半の可能性が指摘されている。廃城後は、館跡、城跡ともに宅地化と農耕地化が進み、改変が見られる。現在は住宅地としては利用されておらず大部分は山林となっている。山城部分は大分県日田市大字北豆田字高城604-628番地および、字高城平594-603番地一帯。城山は丘陵であり、丘の東側は南北方向の浅い谷、北東から北西に花月川が流れ、南麓に標高90メートルの沖積平野がある。平面形は、花月川に沿って三角形をなし、三角形登頂は北東部に当る。高城の標高は約137メートル、南北の標高約115メートルほどの浅い谷を挟んだ東にある戸頃(字)は標高約120メートルある。北東部に主郭1に位置づけられる郭跡(字・古城)、西部に主郭2に位置づけられる郭跡(字・高城)があり、谷の中央に南北一筋の古城(主郭1)にいたる道が通されている。高城(字)は南北約30メートル、東西約10メートルほどの郭で西側に土塁を盛り、字・高城平という削平地が東側に隣接する。また西下の永興寺へいたるルートに2つの堀切が穿たれている。古城(字)は最大長さで南北約30メートル、東西70メートルほどあり、東側以外を土塁で囲み南に内枡形の虎口を開く。この郭跡は明治期に宅地として利用された形跡が確認されている。以下、城主家出自は『日田造領記』による。
出典:wikipedia
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