


国際女子スポーツ連盟(こくさいじょしスポーツれんめい)(Federation Sportive Feminine Internationale(略称:FSFI))は、1921年に創設され、1936年に消滅した女子陸上競技の国際的な統括団体。会長はフランスのアリス・ミリア夫人。1920年代後半には日本を含め世界37カ国が加盟した。1936年の第13次国際陸上競技連盟(IAAF)総会においてIAAFがFSFIに代わって女子陸上競技を完全に管理することが決定され、FSFIが主催する第5回国際女子競技大会の開催について承認が否決されたため、実質的に消滅した。近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。その後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。女子陸上競技は、19世紀末の欧米で主に高等教育の中で体育が重視されるにつれ体操の一環として発達した。1895年にはアメリカのヴァッサー大学で初めての近代女子陸上競技大会が行われた記録がある。20世紀に入ると高等教育を終えた女性がスポーツクラブを設立するようになり、さらに第一次世界大戦の間、女性の身体におけるスポーツの効果が出生率の向上や「銃後の守り」といった観点から研究された。戦場にいる男性とともに優れた体力・体格を備えた女性の必要性が認識されたのである。しかし、女子体育の重要性を知ってはいても、順位を競う陸上競技が過熱すればかえって女性らしい体型を損なうため体操を重視すべきと主張する人は、むしろ教育関係者に多かった。日本の運動会におけるマスゲームもそうした考えが起源となっている。1917年、熱心な婦人参政論者だったミリア夫人が3つのスポーツクラブを組織して、フランス女子スポーツ連盟(Fédération Féminine Sportive de France(略称:FFSF))を結成した。世界初の女性スポーツの全国統括組織である。以後欧米各国で同様の組織、または国を代表するスポーツクラブが形成され、女子陸上競技の発展を支えていくことになる。日本においてFSFIに加盟し女子の陸上競技代表権をもっていたのは日本女子スポーツ連盟(略称:JWSF)であった。1926年(大正15年)4月1日創設。会長は木下東作。国際女子競技大会への女子選手派遣、日本女子オリンピック大会の開催、派遣資金の調達、日本各地での高等女学校生徒を対象にした講演会の開催など、女性スポーツの促進活動を行った。一方男子については日本陸上競技連盟(略称:JAAF)が代表権を持っていた。オリンピックへの女子選手派遣については、アムステルダム大会・ロサンゼルス大会ともJWSFの合意の下、JAAFが行っていた。JWSFの吸収に関しては、JAAF総会の議事録によれば1929年12月から公式に準備がなされ、1933年にはJAAF内部に女子競技委員会が設置されている。また1934年10月には「IAAFとFSFIの関係に従い、女子世界記録の公認申請はJWSFを経由する」決議もなされ、JWSF、JAAF双方がFSFI、IAAFの動きに呼応した。(ただしJWSFは組織の拡大をJAAFの全国組織統一に合わせた形で進めていた。)1935年、JWSFは名称を日本女子体育連盟に変更。1937年1月までにJWSFは女子の代表権をJAAFに委譲した。JWSFは同年実質的に消滅した。作成にあたって下記文献を参照しました。
出典:wikipedia
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