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十輪院

十輪院(じゅうりんいん)は、奈良県奈良市十輪院町にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は雨宝山。本尊は石造の地蔵菩薩。開基(創立者)は朝野魚養と伝える。江戸・明治期の町並みが残る奈良町の一角に位置する。元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備の長男である朝野宿禰魚養が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したという。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない人物である。十輪院については、『大和名所記(和州旧跡幽考)』のような近世の地誌類には弘法大師(空海)の創建とも伝え、創建の正確な時期や事情については不明である。「十輪院」の名称の文献上の初見は、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』(弘安6年・1283年成立)とされている十輪院の寺名は、『地蔵十輪経』に拠ったものと考えられている。現存する本堂、石仏龕(せきぶつがん)、東京へ移築された宝蔵などはいずれも正確な年代は不明ながら鎌倉時代のものとされており、鎌倉時代には地蔵信仰の寺院として栄えていたと思われる。中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。室町時代、天正13年(1585年)までは院領300石を所領したが、豊臣秀長に没収され、また兵乱により堂宇宝物なども大きく被害を受けた。しかし慶長7年(1602年)に徳川家康より、添上郡肘塚町・法華寺町内に寺領50石の寄進を受け、本堂、石仏龕の修復などが進み、一般大衆の地蔵信仰の高まりと相まって次第に寺勢は興隆した。明治維新後は校倉の宝蔵を手放すなど、一時寺勢は衰えたが、1955年(昭和30年)に本堂・南門の文化財としての解体大修理が行われ、以降1962年(昭和37年)に不動堂の修理、1976年(昭和51年)に御影堂の解体修理と続き、境内が整っていった。切妻造・本瓦葺の四脚門。鎌倉時代中期建築。1958年(昭和28年)からの解体修理の際、前面道路の拡充のため1.2メートル内側に移され、築地塀との釣り合い上外観が少し変わった。背後の覆堂内に安置された石仏龕を拝むための礼堂として建立された鎌倉時代の住宅風仏堂。寄棟造、本瓦葺きで桁行5間、梁行4間。前面一間通りは床張りで開放になっており、四方には浅い縁が巡らされ、東北隅の一間も開放になっている。正面の蟇股は力強い鎌倉様式で、他にも軒下組物、大仏様繰形など細部の建築手法に見るべきものが多い。建物全体の立ちが低く、正面は広縁の奥に蔀戸(しとみど)を設け、全体として住宅風の意匠になる。軒裏に垂木(たるき)を用いず板軒とする点も一般の仏堂建築と異なる特色である。棟札によると、慶安3年(1650年:江戸時代)の建築。位牌堂とも呼ばれ、解体修理の際に地下に納骨廟堂が設けられた。桁行3間、梁行3間、宝形造、銅板葺で正面に1間の向拝が設けられている。内陣須弥壇上に、慶長17年(1612年)の造立銘がある弘法大師坐像を祀る。不動堂とも呼ばれる。南門を入ってすぐ左手に位置し、「一願不動尊」の扁額が掛かっている。重要文化財の木造不動明王および二童子立像が内部に安置される。天照大神・春日大神の二座、及び浮島弁財天石祠がある。「うおかいづか」と読む。横穴式石室で、奥壁に半肉で刻まれた如来型坐像の石仏や、宝塔を刻んだ石が巡らされている。東京国立博物館構内にある「旧十輪院宝蔵」(重要文化財)は、元この寺にあり、1882年(明治15年)に東京へ移築されたものである。小規模な校倉造倉庫で、鎌倉時代の建築である。境内に散財する石造品は、いずれも鎌倉時代の遺品とみられる。十三仏図、尊勝曼荼羅図、両界曼荼羅図、十六羅漢図など。河島英五の墓はここにある。

出典:wikipedia

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