初代快楽亭 ブラック(かいらくてい ぶらっく、1858年12月22日〈安政5年11月18日〉 - 1923年〈大正12年〉9月19日)は、落語家、講釈師、奇術師。イギリス領オーストラリアのアデレード生まれ。国籍は初め英国、のち日本に帰化している。本名ははじめヘンリー・ジェイムズ・ブラック(Henry James Black)、帰化後の日本名は石井 貎刺屈(いしい ぶらつく)。先祖はスコットランド人、祖父の代までは海軍や陸軍の軍人。1865年(慶応元年)、日本初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者として日本に滞在していた父・J・R・ブラック()の後を追い、母とともに来日した。父はのちに『日新真事誌』という新聞を発行して新政府の政策を盛んに批判したため、同紙は廃刊措置となり、日本を見限って上海に渡った。このころ近所に演説好きの堀竜太がおり親しくなり自身も1、2度演説に立ったこともある。18歳になっていた長男ブラックは単身日本に残る道を選び、1876年(明治9年)、奇術師三代目柳川一蝶斎の一座に雇われて西洋奇術を披露し始める。同年7月には浅草西鳥越の芳川亭と日本橋南茅場町の宮松亭において、ハール・ブラックの名で西洋手品を興行した記録が残っている。その後の2〜3年間は、一説によるとアメリカのシアトルで母と共に生活していたという。1878年(明治11年)、再度来日。翌年春、以前から親交があった講談師2代目松林伯圓に誘われ横浜馬車道の富竹亭で政治演説に出演した記録が残っている。同年、正式に伯圓に弟子入りし、英人ブラックを名乗った。1880年(明治13年)6月11日に父が53歳で死去。当時の芸人は政府の許可がないと寄席に出ることができなかったため、講釈師三代目伊東燕凌の仲介で外務省と掛け合い、翌1880年(明治13年)に許可を取得。以後、本格的に寄席に出演するようになった。ところが親戚や知人の猛反発に遭い、一時は廃業して英語塾を開かざるを得なかったが、結局は演芸の世界に舞い戻る。1884年(明治17年)には三遊亭圓朝・3代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入った。1891年(明治24年)3月より快楽亭ブラックを名乗る。その2年後の1893年(明治26年)4月に浅草猿若町菓子屋の娘・日本人女性の木村アカと結婚し婿養子となり、日本国籍を取得。本名を石井貎刺屈と改めた、この国際結婚は日本よりも祖国イギリスでの新聞が大々的に報じ話題になった、その後アカとは離婚している。これ以後、ブラックの八面六臂の活躍が始まる。西洋の小説を翻案した短編小説や、それをもとにした噺を書き出したのを手始めに、やがて自作の噺を創作するようにまでなり、べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博した。また、高座で噺の最中に手品を見せてみたり、歌舞伎の舞台に端役で飛び入り出演してみたり、1896年(明治29年)には日本初とされる催眠術の実演を行ったりもしている。1903年(明治36年)に英国グラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグが来日すると、ブラックは積極的に親しい芸人を誘って落語や浪曲、かっぽれなど諸芸を録音円版に録音。これが日本初のレコード録音となる。音質は不鮮明ながら、4代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、初代三遊亭圓遊、3代目柳家小さん、浪花亭愛造、豊年斎梅坊主など明治の名人たちの貴重な肉声が残されることになった。1907年(明治40年)になると人気が凋落し、落語見立で「東前頭四枚目」に落ちる。1908年(明治41年)9月23日、兵庫県西宮の恵比須座に出演中に亜砒酸で自殺未遂騒動を起こすまでになった。関東大震災の衝撃覚めやらない1923年(大正12年)9月19日、白金三光町の自宅で満64歳で死去、死因は脳卒中。遺骸は横浜外国人墓地の父の隣に埋葬された。快楽亭ブラックを偲ぶ墓前祭(快楽忌)は1985年から開催されていたが、関係者の高齢化などにより2007年を最後に休止していた。没後90年にあわせて快楽亭ブラック研究会が2013年の命日である9月13日に墓前祭を復活。これを機に、再び毎年開催されるようになる。
出典:wikipedia
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