丁 部領(ディン・ボ・リン)は、丁朝大瞿越の建国者。後世、丁先皇(ディン・ティエン・ホアン、)と尊称された。もとの名は丁桓(ディン・ホアン、)といい、父の(ディン・コン・チュ)は楊廷芸の下で将軍を務め、驩州刺史として呉権に使えたが、ディン・ボ・リンがまだ幼い頃に亡くなっている。丁部領は父の地盤を継いでを支配し、叔父の丁預を討伐して帰順させ、勢力を強めた。ときにベトナムは十二使君の乱によって豪族の地方割拠が進んでおり、丁部領もはじめは十二使君のひとり陳覧に従い、のちに同盟者となった。その際に陳覧の跡を継ぐ約束をしており、陳覧の死後、その勢力を引き継いだ。乾和9年(951年)、呉朝への納貢を拒んだことから、呉昌岌・呉昌文に根拠地の華閭洞を包囲されたが、攻め落とされることはなかった。また使君の一人である呉日慶を降伏させたのち、その母を娶って妻とし、また娘を呉日慶に嫁がせ、長男の丁璉には呉日慶の妹を娶らせた。呉昌熾を宴会に誘って脅し、屈服させた。また、・とは長年にわたって争った。杜景碩は戦いの中で流れ矢に当たって戦死し、杜氏の兵は丁部領に降した。阮超は最も頑強な存在であったが、阮超軍の渡河中に突風が起こり、軍船や軍の物資はすべて水中に沈んだことを知った丁部領は、十人の勇士を潜入させて阮超の陣営を焼き、阮超軍を大いに破った。その後、矯順・・・らの使君を各個撃破して、安南を統一した。負け知らずの丁部領を民衆は「万勝王」と呼んだ。大宝11年(968年)に帝位につき、国号を「大瞿越(ダイコーエヴェト)」とし華閭に都を置いた。はこののち、1010年のハノイ遷都まで都として在り続けた。大勝明王の号を送られたが、中国皇帝の存在がありながら自らも皇帝を名乗り、息子の丁璉(ディエン・リエン)を南越王に封じた。971年には行政官僚・軍司令官・僧侶・道士などに位階制度を設け、軍制も整備した。973年には宋への朝貢を行う。また、ベトナムで初めて元号をもうけ、989年を太平元年とした。晩年は政権の安定のため多くの有力氏族から皇后を迎えたことが宮廷内乱のもととなり、太平10年(979年)、丁璉とともに廷臣のによって殺された。幼い頃のディン・ボ・リンに関しては、母親がかわうそと交わってできた子である、叔父との抗争のさなか2匹の黄龍に命を救われたなどの伝説が残っている。2011年8月にベトナム人民海軍がロシアから購入したゲパルト型フリゲートが、ベトナム草創期の王朝を打ち建てた二大皇帝 (丁先皇と李太祖)の名にちなんで、と命名された。
出典:wikipedia
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