松下 正寿(まつした まさとし、1901年4月14日 - 1986年12月24日)は日本の政治家、国際政治学者、弁護士。立教大学総長、参議院議員(1期)を歴任した。勲章は勲二等旭日重光章(1974年叙勲)。京都府生まれ。母方の祖父松下一郎は牧師で、松下家はキリスト教徒の家系であった。母は亀徳(きとく)しづ。兄は青山学院大学教授の亀徳正臣(1899-1954)。母方の姓を名乗る。青森県八戸市の八戸聖公会で育つ。旧制八戸中学校(現 青森県立八戸高等学校)を経て1922年に立教大学を卒業。コロンビア大学でPh.D、カールトン大学で学士号を取得した他、ミネソタ大学やジョンズ・ホプキンス大学にも留学した。1929年、28歳の若さで母校である立教大学教授に着任する。第二次世界大戦中は、高木惣吉の提唱により設置された海軍軍務局調査課のブレーンを務め、各種研究会に所属していた。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では日本側の弁護人を務める。1948年弁護士開業。1955年、立教大学総長に就任し、在任中は法学部の設立に尽力する。1957年には岸信介首相の特使として訪英し、核実験の実施に遺憾の意を示す岸首相の書簡を英国首相ハロルド・マクミランに渡している。1967年、東京都知事選挙に自民・民社2党推薦で立候補したが、社共推薦の美濃部亮吉東京教育大学教授に惜敗した。1968年7月の第8回参議院議員通常選挙に民社党公認で東京都選挙区から出馬し、初当選を果たした。第10回参議院議員通常選挙には出馬せず、1期で引退。1975年に再び東京都知事選挙に民社党推薦で出馬するが、美濃部亮吉知事、石原慎太郎の後塵を拝し、3位で落選した。1986年死去。参議院議員時代の1973年、世界基督教統一神霊協会教祖の文鮮明に助言を求めるため面会して以来、統一教会の思想や運動に深く関わりを持つようになり、元筑波大学学長の福田信之と共に、統一教会に重用された。1974年、統一教会が中心になって設立された世界平和教授アカデミーの会長に就任。その後も世界日報論説委員(1975年)や日韓トンネル研究会名誉会長(1977年)等、統一教会関連の団体の役職を数多務めている。1979年7月にはソウル・ロッテホテルにおける国際学術会議で韓国語によるスピーチを行った。1984年、文鮮明の人物像や理念を紹介した「文鮮明 人と思想」を上梓。1986年に松下が死去した後、1987年1月16日に統一教会本部において昇華追悼式(統一教会式の葬儀)が挙行された。一方で1969年に統一教会関連の市民大学講座学長に就任後、開講提唱者である数学者の岡潔を講師として招聘しているが、統一教会やの全体主義的な教義に従う松下について「松下 知的センスゼロ」と激しく非難されている。また講演箇所が固定的にならないよう、市民大学という名称も都市大学に変更するよう要請されている。松下はこうした岡の指摘を受け入れると同時に岡を信奉していた。
出典:wikipedia
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