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クシロキング

クシロキングは日本の競走馬。おもな勝鞍に天皇賞(春)、中山記念、日刊スポーツ賞金杯がある。以下、馬齢は旧表記(数え年)で統一する。1984年9月、函館競馬場でデビュー。惜敗を繰り返したが、4戦目で初勝利を挙げた。その後、オープン特別のひいらぎ賞で2着になり、3歳時は5戦1勝で終わった。年が明けて4歳になったクシロキングは自己条件を勝ち上がって、クラシック路線を歩むも皐月賞は13着に終わり、日本ダービーは骨折のため出走できなかった。半年の休養を経て、復帰戦で2着と好走したクシロキングは900万条件を連勝して、4歳シーズンを終えた。ちなみに3~4歳時は安田富男がクシロキングの主戦騎手を務めている。5歳になってからの初戦は中山での金杯で、このレースから鞍上は岡部幸雄に替わった。このレースでは53キロの軽ハンデを生かして差し切り勝ちを収め、重賞初制覇となった。続く目黒記念は3着だったが、中山記念ではトウショウペガサスにクビ差で競り勝ち、春の天皇賞へ向かう事になった。この年の春の天皇賞は前年の2冠馬ミホシンザンが骨折で離脱したため、主役不在という前評判だった。クシロキングは当初、安田記念もしくは京阪杯(当時、京阪杯は2000mの中距離戦で5月に行われていた)から宝塚記念に向かう予定であったが、ミホシンザンが出ないため、急遽、天皇賞出走を決意した。クシロキングはスダホーク、サクラユタカオーに次いで3番人気だったが、単勝は11.0倍だった。人気がさほど上がらなかったのは、これまでの実績から距離不安が指摘されていたためである。しかしレースでは、クシロキングは1周目のスタンド前ではスタミナを温存しながら後方13番手を追走、2周目の3コーナーの上り坂から動き、4コーナーで3番手まで進出したのち、最後の直線で抜け出して優勝した。「マイル(1600m)の競馬を2回走る競馬をさせればいい」と後半勝負に徹して、3コーナーから一気にまくってみせた岡部の常識外れともいえる騎乗は、京都競馬場における「ゆっくり上り、ゆっくり下る」という坂のセオリーの逆をいくものであり、岡部自身「もう一度同じ騎乗をしろといわれても無理」と振り返ったほどの絶妙の騎乗だった。のちに岡部は「騎手冥利に尽きる、自分だけが腹の中で笑えるような、そんなレースだった」と述懐している。天皇賞優勝後、クシロキングは距離が2200mになるという事もあり、宝塚記念では1番人気になったが、全くいいところなく7着と敗れた。秋は天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念のGIレース3戦に出走したが、天皇賞(秋)は14着、ジャパンカップは8着、有馬記念は10着と大敗が続いた。6歳になると、クシロキングは復調し、アメリカジョッキークラブカップは3着、連覇を狙った中山記念で2着、大阪杯でも2着と好走が続いたが、連覇を狙った天皇賞(春)では6位入線で繰り上がりの5着(2位で入線したニシノライデンが進路妨害で失格したため)に終わり、連覇はならなかった。宝塚記念で8着、そして有馬記念でメジロデュレンの9着に敗れたのを最後にクシロキングは引退した。クシロキングは同世代であったスダホークとは同一レースでの対決も多かったが、4勝5敗とスダホークに負け越している。引退後は、馬主の個人所有という形式で、三石町の大塚牧場で種牡馬入りするが、種付け頭数が集まらなかった上、数少ない産駒も中央競馬で勝ち鞍を挙げた馬が一頭もいないという結果に終わった。1995年には種牡馬からも引退した。同年5月に乗馬として山梨県の風林ファームに移ったが、1996年12月に放牧中の事故で脚を骨折し、安楽死の処置がとられた。風林ファームは同馬の死後、程なく閉鎖している。母の弟にマサヒコボーイ(京都記念(春)、日経新春杯)、曾祖母エスタブリツシユメントの産駒にロングホーク(阪神大賞典、日経新春杯、大阪杯、朝日チャレンジカップ、スプリングステークス、天皇賞〈春〉2着)がいる。さらに4代母ストーミーセツシヨンの孫にはインターグロリア(桜花賞、エリザベス女王杯、阪神牝馬特別、マイラーズカップ、京都牝馬特別2回、有馬記念2着)がいる。

出典:wikipedia

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