マン島TTレース(マンとうティーティーレース、英:"The Isle of Man Tourist Trophy Race" )は、1907年からイギリス王室属国のマン島(Isle of man)で開催されているオートバイ競技である。競技は世界最古の議会で『青空議会』としても知られるマン島議会ティンワルドが制定した公道閉鎖令に基づき公道を閉鎖して行なわれる。マン島TTレースは当初、ツーリング・マシンと呼ばれる市販車と同じオートバイのために開催されていて、まもなくツーリスト・トロフィーとして知られるようになった。TT("Tourist Trophy" - ツーリスト・トロフィー)レースという名称は、レースの形態が現在のように周回コースを使用して行われるようになるまで、ヨーロッパの都市と都市を結ぶ公道を使用して行う都市間長距離移動レースという形態であったため、"tourist"(旅行者ではなく「遠征するスポーツ選手」という意味で、マン島TTレースの場合はライダーのことを指す)によって競われるレースという意味合いを持つことに由来していて、自転車競技のステージレースで「ツアー(フランス語では「ツール」)」という語が用いられるのと同様である。当初のマン島TTレースの目的は、市販車の改良であった。そのため、レースに出場するオートバイは年々スポーツタイプと化していった。伝統的に5月最終週から6月第1週にかけて開催され、コースは島の南東部にある首都ダグラスを起点として、西へ北へと大きく曲がりながら、北東海岸部の町ラムゼイに入り、スタート地点まで戻る。1周の長さは37 3/4マイル(60.7km)で、200以上のカーブが存在し、海抜0ftから1,300ft(396m)を超える高低差がある。コースは普段一般道として日常生活や観光のために使われており、レース中は一般車両の通行を封鎖する。授与されるトロフィーはマルキ・ド・モウジリ・サン・マルス("the Marquis de Mouzilly St. Mars" )が寄贈したもので、その銀のフィギュアはオリンピックの神ヘルメースが羽の生えている車輪にまたがっているものである。このトロフィーは、マン島・ツーリスト・トロフィー・自動車レースの勝者に授与されるモンタギュー・トロフィーに似ている。近年、初参加選手にはマンクス・グランプリでの実績と経験が求められる。。マン島のレースは1904年にゴードン・ベネット・カップの出場者を選抜するトライアルとして始まり、当初は自動車のみのレースだった。1903年に自動車法が施行されて20mphの速度制限が実施された。英国・アイルランド・自動車クラブの代表は、マン島上層部に接触して公道での自動車レースの許可を要請し、1904年の公道(軽蒸気機関)法でマン島52.15マイルの"ハイランド(高地)"コースの使用が許可された。1905年のゴードン・ベネット・カー・トライアルで、国際モーターサイクルカップレースに出場する英国代表チームを選出するためのトライアル競技を開催することが決定した。険しい山岳セクションの登坂がモーターサイクルには難しく、ラムゼイ・ヘアピンでは事故も起きたことから、競技委員は最終的にゴードン・ベネット・トライアルコース中の25マイルセクションをコースとして設定した。マン島の首都、ダグラス市の南部からキャッスルタウンを抜けて北上し、A3道路でバラクレイン方面に向かう途中で折り返し、コルビーとグレン・バインを経由してスタート地点のダグラスに戻るという、現在のルートを逆にたどる設定だった。このレースではJ.S.キャンベルが4時間9分36秒で優勝している。1906年、国際モーターサイクルカップがオーストリアで開催されたが、このレースでは不正行為や策略が横行して混迷した。列車で帰還する際にオート=サイクル・クラブの代表とフレディ・ストレート、コリエル兄弟(マチレス・モーターサイクル)、マルキ・ド・モウジリ・サン・マルスといった面々が話し合った結果、翌年のレースは公道用のモーターサイクルを使い、マン島での公道閉鎖コースでの自動車競技をベースに行なうことが決まった。この新式競技方法は1907年1月17日にロンドンで開催されたオート=サイクル・クラブの年次夕食会で雑誌『モーターサイクル』の編集者から提案された。競技は単気筒で平均燃費が90mpgのクラスと2気筒で平均燃費75mpgとの2クラスにわけて行われた。公道仕様車両のレギュレーション(規定)としてサドル、ペダル、マッドガード、排気サイレンサーに対して指定がなされた。1907年5月28日に第1回競技が開催され、15マイル1,470ヤードのセント・ジョン・ショート・コースをサドル、ペダル、マッドガード(泥よけ)などを装備して公道での保安基準を満たしたツーリング用モーターサイクルで10周した。マチレスに乗ったチャーリー・コリエルが4時間8分8秒/平均時速38.21mph(約61km/h)で単気筒クラスと総合クラスで優勝。2気筒クラスはプジョーエンジンを載せたノートンでレム・フォウラーが4時間21分52秒/平均時速36.21mphでの優勝だった。『マルキ・ド・モウジリ・サン・マルス』トロフィーはこの年から授与されるようになった。1908年には燃費が単気筒は100mpg、2気筒は80mpgに上げられ、ペダルの使用は禁止された。ジャック・マーシャルがトライアンフで優勝し、平均時速は40.49mphだった。1909年は燃費規定が改正されて排気サイレンサーの使用が廃止された。単気筒マシンは500ccまでと規定され、2気筒マシンは750ccまでとされた。周回速度の高速化に伴い、1910年から2気筒マシンは670ccまでとされた。新コースとして設定された37.5マイルのスネーフェル・マウンテン・コース(Snaefell mountain course)での第1回目は1911年に行なわれた。ジュニアTTレースとセニアTTレースの2つに分離され、ジュニアTTレースは300ccの単気筒または340ccの2気筒で4周し、セニアTTレースは500ccの単気筒または585ccの2気筒でを5周した。この年、ジュニアTTレースで35台がエントリーし、ハンバーに乗ったパーシー・J・エバンズが3時間37分7秒/平均時速41.45mphで優勝した。マウンテン・コースでは乗員と車両の双方に技術的な挑戦が求められた。インディアンは2速ギアボックスとチェーン駆動を採用し、1911年マン島セニアTTでオリバー・ゴドフレイが3時間56分10秒/平均時速47.63mphで優勝した。これに対して、マチレスは6速ベルト駆動で、チャーリー・コリエルが乗り2位となったが、レース後、規定外の給油により失格している。1911年の予選中にビクター・サリッジがラッジに乗りグレン・ヘレンでクラッシュを起こし亡くなっている。1912年には、単気筒と2気筒の別なく350ccまでがジュニアTTレースとなり、500ccクラスがセニアTTレースとなった。1913年、オートサイクル・クラブの代表がトミー・ラフボローからフレディ・ストレートになり、すぐにレースがより難しく変更された。ジュニアTTレースは2つのレースに分離され、2周と4周になった。セニアTTレースは7周で、ジュニアTTレースの4周組と一緒にスタートした。1914年、ジュニアTTは5周となり、スタート地点もブレイ・ヒルに移動した。これにより競技者のパドックスペースが広く取れるようになった。クラッシュに備えてヘルメット着用が義務付けられた。1914年、ジュニアTTは豪雨の中で開催され、マウンテンコースは霧が発生していた。AJSに乗ったエリック・ウィリアムズが4時間6分50秒/平均時速45.58mphで優勝した。この年、ロイヤル・エンフィールドに乗ったフランク・ウォーカーが事故で亡くなっている。マン島でのモーターサイクルレースは第一次世界大戦終了後、1920年に再開した。スネーフェル・マウンテン・コースに変更が加えられ、スタートとゴールはグレンクラチェリーロードに置かれた。コース長は37.75マイルとなった。ジュニアTTレースでは250cc軽量クラスも新設された。1923年のコース変更で議会広場からラムゼイのメイヒルにかけての私道が含まれて、コース長は37.73マイルとなった。スネーフェル・マウンテン・コース の一部は、Creg-na-BaaとHillberryの途中でクラッシュし足の骨を折ったライダー、ウォルター・ブランディシュにちなみ、ブランディシュと名づけられた。1923年のセニアTTレースは悪天候と地元出身の地の利でトム・シェアードがダグラスに乗り2度目の優勝を果たしている。1923年ジュニアTTレースはスタンレー・ウッズがコットンに乗って優勝した。サイドカーレースの第1回も同時に行なわれ、TTコースを3周した。優勝は運転フレディ・ディクソンと同乗ウォルター・ペリーの組で、特注のダグラス製バンキング=サイドカーで2時間7分4秒/平均時速53.15mphだった。1924年、175ccの超軽量TTレースも行なわれるようになった。これはタイムトライアル形式の2組毎のスタートである他のレースと異なり、競技者全員が一斉スタートした。初回優勝者はニュー・ジェラルドに乗ったジョック・ポーターで平均時速51.20mphだった。1924年のジュニアTTレースではケン・テムローがニュー・インペリアルに乗り優勝し、平均時速は55.67mphだった。同じレースで、ジミー・シンプソンがAJSで35分5秒/64.54mphの新周回記録を出した。これは初めて平均時速が60mphを超えた記録であった。軽量TTおよびセニアTTレースではケン・テムローの兄弟、エディ・テムローがニュー・インペリアルで優勝し、6周を4時間5分3秒/55.44mphで走行した。セニアTTレースもジュニアと同様に記録を更新し、アレック・ベネットがノートンで6周を3時間40分24.6秒/61.64mphで60mph台を達成した。1926年はサイドカーと超軽量にエントリーが無かったため廃止となった。スネーフェル・マウンテン・セクションを含め、ほとんどのTTコースは舗装された。1926年の変更はアルコールベースの燃料が禁止され、車両用ガソリンの使用が求められた。1927年には予選中にアーチー・バーキン(ティム・バーキンの兄弟)が事故を起こしたカーク・マイケルのコーナーがバーキンズ・ベンドと命名され、1928年から予選時も道を閉鎖して行われるようになった。1930年(昭和5年)、多田健蔵はヴェロセットKTT(350cc)でジュニアクラスに出場してマウンテン・コースを走り、15位になった。初出場で完走し、年齢が42歳であったことを高く評価されてレプリカ賞を獲得した。第二次大戦後の、FIMはロードレース世界選手権(WGP)を開始して、マン島TTレースはイギリスラウンドとして世界選手権シリーズの一戦に組み込まれた。その後もWGPの中でも最も重要な一戦として位置づけられていた。1954年から1959年まではクリプス・コース("Clypse Course")が使われた。マウンテン・コースの南東に位置する1周17.38kmの公道を使用したロードコースで、マウンテン・コースの一部も使用した。コース名は、人造湖のクリプス湖("Clypse Resevoir")を周回することに因んで名付けられた。1960年からは再びスネーフェルマウンテンコースが使用された。年々のマシンの性能向上は著しく、にはボブ・マッキンタイヤが初めて100mphを超える平均速度(オーバー・ザ・トン)を記録した。は日本のホンダが初めて125ccクラスに参戦して完走して谷口尚己が6位入賞、2年後のにはマイク・ヘイルウッドの手によりマン島初優勝を記録した。の50ccクラスではスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝した。マン島TTレースはグランプリの一戦となってからも世界最大のロードレースイベントであり続けたが、一方では60kmに及ぶマウンテン・コースやインターバルスタートといった他のグランプリとは異質な要素が、近代的なサーキットに慣れたGPライダーたちから敬遠されるようになった。また、舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶために改修費用は莫大なものとなる一方で、観客から入場料収入を得ることができない公道コースでは費用の捻出ができなかった。そして、オートバイの速度向上にコースの整備が追いつかず、安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの出場を拒否するようになった。ヤマハははマン島TTレースのみ参加せず、同年ジャコモ・アゴスチーニは「コースが改修されない限り、1973年は出場しないつもりだ」と語った。は有力なチームとライダーは出場しなかった。そして、FIMは翌年からマン島TTレースをロードレース世界選手権のカレンダーから外し、代わりにイギリスGPとしてシルバーストンでのレースをカレンダーに加えることを発表した。WGPシリーズから外れたマン島TTレースは市販車ベースのマシンによるレースとなり、1977年からはTTフォーミュラのレギュレーションに沿ったクラスでレースを開催した。1977年のマン島には、WGP時代にマン島批判の急先鋒であったフィル・リードがエントリーして物議を醸した。ほとんどがリードを非難する意見であり、オフィシャルの中には「リードが転倒しても救助活動をしない」と宣言する者までいた。しかし、リードの参戦は一方で翌年のマイク・ヘイルウッドらグランプリのポイント争いの重圧から解き放たれたトップライダーたち参戦の呼び水ともなり、またジョイ・ダンロップをはじめとする新たなスターライダーも誕生した。現在、代表的なTTレースのオートバイは空力特性の優れる流線型カウルと技術の向上によりスネーフェル・コースを平均120mph(193km/h)を超えるスピードで駆け抜けていく。平均速度の記録は年々塗り替えられ、2002年にデビッド・ジェフリースが127.29mph(204.81km/h)を記録し、2004年にジョン・マクギネスがヤマハYZF-R1で127.68mph(205.43 km/h)を記録、2006年にマクギネスは129.451mph(208.33km/h)と更に記録を更新した。2008年には世界的な環境問題への関心の高まりから、ティンワルドでゼロエミッションカテゴリが提案され、2009年にテストとして特別レース「TTX」が開催された。チームの参加数や走行性能が未知数であったため、「50分以内にマウンテン・コースを一周(37.773 Miles)」「フロントタイヤを覆うカウル(ダストビン)を許可」など緩い規定が採用された。参加チームも、市販車を改造した大学生チームや地元の有志、フレームまで自社で設計したITベンチャー経営者など多種多様なチームが参戦することになった。なおライダーは他のカテゴリの出走者がボランティアで担当した。レース当日には多くのチームで漏電やバッテリー上がりなどのトラブルが発生したが、主催者側の予想よりも車体の完成度や平均速度が高いチームが多かったため、2010年からは正式カテゴリの「TT Zero」として継続が決定した。またテストではあったが、アメリカ人ライダー(Thomas Montano)がアメリカ製のバイク()で初めて優勝した。TT Zero第一回レースでは、アメリカ人ライダー()がアメリカに本社を置くのオリジナル車両で優勝、地元チームの「Man TTX Racing」が3位、の学生チームが4位になっている。環境PRのイベントとしてスタートしたが、2012年にはM-TECが、2013年からはヤマハが参戦するなど、現在では本格的なレースに発展している。なお、出走するバイクは「CO2の排出量がゼロ」という条件だったが、事実上は電動バイクのカテゴリとなった。パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでも電動バイクのカテゴリが新設され、TT Zeroに参戦するチームも出走している。TTは安全面から常に将来が危ぶまれている。レース専用のサーキットとは異なり、コースのすぐ脇に民家の石壁などが存在する上、郊外の直線路ではマシンが非常に高い速度に達するため、転倒やコースアウトを喫したライダーは重傷あるいは死亡に至る例が多い。特に、マッド・サンデーといわれる誰でも一般参加が可能な走行枠で、オートバイで来場した観客が亡くなる事故が問題視されている。1907年から2009年まで239人のライダーが亡くなっている(マンクス・グランプリを含む)。日本人の参加者では、高橋国光が1962年の世界GP第3戦の決勝でスタートして間もなく激しく転倒し、意識不明の重体に陥り一時は生命も危ぶまれた。今でも右目じりに傷が残る。1966年には元スズキワークスライダーの藤井敏夫がカワサキ車で個人出場した際、公式練習中の事故で死亡している。2006年には前田淳が練習走行中に何らかの理由でスロー走行していたところを後続車に追突され亡くなっている。2013年には松下ヨシナリが予選走行中の事故で死亡している。東京都が三宅島の公道を使用したモーターサイクルレースの開催をめざし、石原慎太郎都知事が2006年のマン島ツーリスト・トロフィーを視察したこともあったが、結局、安全面での懸念などからレースとしての開催は断念し、チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルとしてオートバイによるフェスティバルを開催することとなった。マン島にはツーリスト・トロフィーを頂点として3つの大きなレースがある。ツーリスト・トロフィーは通常、マン島TTレース("The Isle of Man TT Race")と表記される。"TT"は、ブランドロゴのような使用のされかたをしている。各国で行われるレースにはマン島TTレースを真似て、ツーリスト・トロフィーレースと命名されているレースがある。日本語で表記される場合は「マン島TTレース」とも記されるが、"TT"が省略されて「マン島レース」と呼ばれることも多い。オックスフォード・ワールド・スポーツ・アンド・ゲームスでは、「最古のモーターサイクルレースサーキットはスネーフェル・マウンテン・コースであり、マン島・ツーリスト・トロフィー・レースでいまだ使われている」と記述されている。TTレースの期間中は道路閉鎖のため島内の旅は困難となるが、TTへのアクセス道路はダグラス市内にあり、マウンテン・コースの中心部にアクセスが可能である。2007年にはツーリスト・トロフィーは百周年を迎えたが、。マン島TTレースにちなんだゲームが発売されている。
出典:wikipedia
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