新島(しんじま)とは、鹿児島湾の奥、桜島の北東約1.5kmの位置にある島である。燃島(もえじま)とも呼ばれる。古くは安永島・祝島とも呼ばれていた。南北750メートル、東西400メートル、面積約0.1km²、人口1人、世帯数1世帯(2014年3月31日現在、住民基本台帳人口。2013年8月以降の定住者は無い)。全域が鹿児島県鹿児島市新島町の区域である。新島・新島港と桜島・浦之前港との間を行政連絡船「しんじま丸」が1日2往復・週5日運航されている。住民は鹿児島湾の豊富な水産資源を生かし、漁業(養殖なども)で生計を立てている。かつてはサトウキビなどの栽培も行われていた。植生は、クロマツ・ダンチク・ススキなどが多く見られ、集落内にはアコウの群落がある。新島で最初に発見された植物としてモエジマシダがある。地質は表層から新島シラス層・燃島貝層・燃島シラス層・燃島シルト層から成り、海面下には溶岩が冷えて固まった安山岩が認められる。燃島貝層と呼ばれる貝殻を含む地層は周囲の海岸や断崖に白い帯となって分布しており、かつて浅い海であったことを示している。当島には鹿児島県設置の地震計がある。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、離島以外で震源から一番遠い有感観測点となった。新島は桜島安永噴火の際に海底が隆起してできた。1780年(安永9年4月1日)、鹿児島湾海上に岩が出現し、4月8日には島となった。4月15日には同様に出現した島と一つになり東の砂島となった。一方、5月17日には海上に別の岩が出現し6月5日に島となった。この島も6月11日に別の島と一つになり西の砂島となった。7月17日から18日にかけて両島の間にさらに別の島が出現し、東の砂島と西の砂島をつなぐ形で一つの大きな島すなわち新島となった。1781年(天明元年3月18日)に島の西側で噴火があった。1785年(天明5年)の地図によると当時の新島は現在の数倍の面積があり、南、北西、北東に岬を配する三角形を呈していた。南端の岬はスサキ、北東端の岬はカンノスと呼ばれ、カンノスの南側に入り江を挟んでシモンスと呼ばれる岬があった。カンノスとシモンスは1786年(天明6年7月16日)に襲来した台風のために消失している。形成直後の新島は周囲1里(約4000メートル)以上あったと記録されているが、1785年(天明5年)の薩摩藩による調査では2264メートル、1810年(文化7年)の伊能忠敬による測量では2157メートル、1961年(昭和36年)の調査では1450メートルと縮小している。これは主として波による侵食を受けたためである。特に1945年(昭和20年)以降相次いだ台風の襲来や冬期の季節風によって侵食が進み建物が失われるなどの被害が深刻化した。このため1966年(昭和41年)から離島振興法の適用を受け海岸に護岸工事が施された。1951年には約250人が居住していた新島だが、1972年には桜峰小学校の分校が閉校、平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)においては5人にまで減少した。そのうち3人は高齢者、すなわち高齢化率は60パーセントでいわゆる限界集落であった。2011年には将来的に無人島化する可能性があることが南日本新聞により報道されており、2013年8月までに全住民が島外へ移住したことにより、新島の定住者はゼロとなった。なお当面の間行政連絡船の運航は2015年時点でも行われている。市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。