前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、熊本県玉名市(旧玉名郡岱明町)出身の元プロ野球選手(外野手)。1987年、熊本工業高校に入学。2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園に出場。3年時の夏には主将・4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。3年時の甲子園大会後、熊工には西武を除く11球団、前田の自宅にも異例の8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のホークスは上位指名を示唆するなど熱心だった。しかし同年11月に行われたプロ野球ドラフト会議ではホークスからの指名はなく、広島が4位で指名。前田は会見場でテレビ中継を見た後、1時間近く泣き続け、一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川孝雄スカウトは、「ホークスは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。1989年のドラフト4位で広島に入団。1990年2月のオープン戦でロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場し、5打数5安打(4二塁打)を残した。公式戦初出場となる6月6日のヤクルト戦では6番・中堅で先発出場を果たし、二塁打を放つなど4打数2安打1打点を記録。1991年の開幕戦では1番・中堅で先発出場し、プロ入り初アーチとなる先頭打者本塁打を放った。一時は打撃不振に陥り先発落ちも経験するが、6月以降は2番に定着した。129試合に出場し、打率.271、14盗塁、30犠打の成績でチームの優勝に貢献。外野手としては史上最年少(19歳で開幕)でゴールデングラブ賞を受賞した。1992年の開幕戦から6月3日まで2番を打っていたが、それ以降は主に3番を任される。シーズンを通じて全試合に出場し、打点王は逃すもののラリー・シーツに次ぐリーグ2位の89打点、得点圏打率は.358を記録した。またリーグ5位の打率.308も残し、初めて打率を3割台に乗せた。これ以降規定打席に到達した年では1991年・2003年・2007年の3シーズン以外は打率3割以上を達成している。他に盗塁数18でリーグ4位、守備では刺殺数、補殺数ともにリーグトップを記録。外野手のベストナインに選ばれた。1993年も2年連続となる全試合出場を果たし、リーグ3位タイの27本塁打、リーグ4位の打率.317(日本人選手中ではリーグ1位)、リーグ最多二塁打・最多塁打、OPS.945を記録するなど活躍した。翌1994年は開幕戦から4番に座るが、4月30日以降は3番に固定。同年シーズンはアロンゾ・パウエルと首位打者争いを繰り広げ、3厘差のリーグ2位の打率.321を記録し、本塁打はリーグ5位タイの20本塁打を残す。4年連続となるゴールデングラブ賞、3年連続となるベストナインを獲得した。1995年は開幕から2試合連続本塁打を記録するなど絶好調なスタートだったが、この頃から勤続疲労等でアキレス腱の痛みが酷く毎試合テーピングは必須であった。好調だったスタートとは裏腹に打率もみるみる下がり、足の痛みも酷くなったこともありテーピングの数を倍にして挑んだ5月23日、対ヤクルト戦の第一打席。ヤクルト先発石井一久のストレートを打ちセカンドゴロ。一塁への走塁時に右アキレス腱を断裂する大怪我を負う。選手生命の危機に陥り、残りのシーズンを棒に振った。同年以降からアキレス腱断裂の怪我がプレーに大きな影響を及ぼすようになり、故障がちにもなった。1996年の開幕戦に先発出場するが、足の肉離れにより数試合で離脱。5月に復帰してからはほぼ全試合に出場し、2年ぶりに規定打席に到達した。同年から1999年まで、4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上(.368、.368、.358、.343)を記録。1997年は怪我の影響もあり休養を挟みながらの出場であったため、最終戦の9回終了時点では規定打席にわずかに足らなかったが、延長戦に突入して打席が回ってきたため、ぎりぎりで到達している。1998年、開幕戦から6日間は1番打者として出場し、それ以降は3番に定着。同年は打撃の調子や足の状態が良好で、毎試合スタメン出場を続けた。4月に打率.370・5本塁打・16打点を記録して月間MVPを受賞。前半戦を打率.336・14本塁打で折り返し、インタビューでは「怪我をせずにやってこれてるので、それが一番嬉しい」とコメントした。8月には首位打者争いのトップに立ち、5試合連続本塁打を記録。月間成績で打率.368・9本塁打・26打点を残し、一時はリーグの三冠王になる程の活躍で8月の月間MVPを受賞した。9月の巨人戦では東京ドームの看板に直撃する本塁打を放ち、賞金100万円を獲得。同月13日のヤクルト戦で23度目の猛打賞を記録し、それまで与那嶺要が持っていたセ・リーグのシーズン最多記録を46年ぶりに更新した。しかし15日の試合で、走塁時に左ふくらはぎを痛めて立ち上がれなくなり、欠場。残りの試合を棒に振った。127試合出場に終わり、自身が目標にしていた「全試合出場」にはあと一歩及ばなかった。シーズンを通して鈴木尚典・坪井智哉らと首位打者争いを繰り広げ、2厘差の打率.335でリーグ2位に終わるものの、1993年以来となるリーグ最多二塁打・最多塁打を記録。4年ぶりにベストナインに選出された。また、同年シーズンの首位打者争いは鈴木(横浜)の打率が.337、前田が.335の状態で残り試合は両チームの直接対決のみとなったが、横浜監督の権藤博は試合前に「広島が前田を出場させるのなら、鈴木を休ませ、前田を全打席敬遠させる」と発言した。これを聞いた前田も「ファンにみっともないものを見せたくない。敬遠されるくらいなら試合に出ない」と出場を拒否し、結果的に両選手が欠場している。1999年は前年の活躍もあり周囲からも打撃タイトル獲得を期待されてシーズンに突入したが、足の調子が芳しくなく、怪我との兼ね合いで休みがちになる。調子も上向かなかったものの、最終的に打率3割を残した。2000年、FAで巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるために4番で起用される。同年は序盤から打撃が好調で、4月の月間MVPを受賞するなどハイペースで本塁打を量産していたが、シーズン途中で左アキレス腱の状態が悪化し、不調に陥る。7月27日に腱鞘滑膜切除手術を受け、残りのシーズンはリハビリに努める。79試合の出場で打率も長打狙いが仇となり自己ワーストの.237に終わった。同年にFA権を取得したが、行使はしなかった。翌2001年3月に結婚。しかし同年シーズンも足の状態が思わしくなく、公式戦出場は27試合に留まり、本塁打はゼロに終わった。2002年は開幕から先発出場し、4月5日の広島市民球場での対中日戦で、山本昌から約2年ぶりの本塁打を放つ。4月6日の試合中では、前田の走塁に不満を持ったルイス・ロペスに暴行を受けた。4月は5番、5月以降は6番打者として先発出場していたが、8月以降は5番に定着。打率3割を記録し、同年のカムバック賞を受賞した。2004年は開幕戦の4月2日から4月23日まで19試合連続安打を記録(開幕からの連続試合安打としては球団記録。歴代では4位)。シーズンでは2年ぶりに打率3割に到達した。2005年、5番レフトで全試合に先発出場を果たし、打率.319、32本塁打、自己最多の172安打を放つ。全試合出場は1993年以来13年振りで、三振率.073は自己最高だった。2006年は新監督のブラウンから野手のキャプテンに指名される。開幕当初は出塁率の高さを買われて2番打者を務めるが、打撃不振に陥り半月で5番に戻った。5月25日に通算100補殺を達成。8月22日の対阪神戦でライト前ヒットを放ち、史上40人目の3000塁打を達成した。134試合に出場してリーグ4位の打率.314でシーズンを終え、通算11度目の3割(歴代5位タイ)を記録した。また規定打席に到達したシーズンの中では自己最高となる得点圏打率.373(リーグ2位)を残した。2007年9月1日の対中日戦(広島市民球場)で、8回裏に久本祐一からライト前2点タイムリーヒットを放ち、史上36人目(メジャーリーグに所属している松井秀喜、イチローを含めると38人目)となる2000本安打を達成。31三振は4年連続のリーグ最少(規定打席到達者中)、三振率.075もリーグ最小だった。一方、怪我が相次いだこともあり、最終戦で規定打席に到達。4年ぶりにシーズン打率3割を切った。同年のオールスターゲームでは第1戦に代打本塁打を放った。2008年は開幕からしばらくはスタメンで出場していたが、後半は外野手の若手起用、守備と走力重視のチーム編成により先発から外れたが、代打では打率.372の成績を残した。最終的に84試合に出場して打率.270、4本塁打に終わった。10月10日に球団と会談を行い、FA権の不行使と2009年シーズンの選手専任での現役続行が決まった。2009年はキャンプからコンディションが整わず、ブラウン監督の若手重視の起用方針もあり、プロ入り初の一軍試合出場ゼロに終わった。緒方孝市の引退試合では花束を渡し、涙ながらに抱擁をした。は代打での出場を目指して調整を行い、3月4日のオープン戦で2008年10月以来の対外試合へ出場を果たした。開幕後の3月29日には代打として2年ぶりに公式戦に出場し、無死満塁の場面で犠牲フライを放った。4月11日には横浜スタジアムで2年ぶりの公式戦本塁打を打ち、4月16日にはマツダスタジアムでの対中日戦で、浅尾拓也からセンター前へ自身16年ぶりのサヨナラ安打を放った。同サヨナラ安打はマツダスタジアムでの初安打となった。同年シーズンは主に代打で起用され、2割代前半の打率ながらも代打としてはチーム最多の62試合に出場した。故障の不安を抱えたシーズンだったため守備には就かなかったが、指名打者制度を採用したセ・パ交流戦では、指名打者として6試合に先発出場した。シーズンも代打専任で過ごしたが、4試合で決勝打を放つなど勝負強さを発揮し、代打の切り札として活躍した。松田元オーナーからも2012年の現役続行を要請された。も前年同様に代打の切り札として起用されている。7月1日の対DeNA戦では決勝の適時打を放ち、このプレーが2012年第7回「ジョージア魂」賞に選ばれた。シーズン成績も打率.327、出塁率.408をマークし、昨シーズン以上に代打での勝負強さが発揮された1年となった。この年、金本知憲と石井琢朗が現役引退したため、現役選手では日本プロ野球の通算最多安打記録保持者となった。4月23日、対ヤクルト戦(神宮)の8回表に代打で出場した際に江村将也から左手首へ投球を受け途中交代した。この後、前田がマウンドの江村に近寄り、両チームのメンバーが入り乱れ古澤憲司投手コーチが退場になるなど乱闘のような事が起こる。東京都内の病院で検査を受け「左尺骨骨折」と診断された。これ以後はシーズン中の戦列復帰目指してリハビリテーションに取り組んでいたが、9月27日にマツダスタジアムで記者会見を行い、今季限りで現役を引退することを発表。10月3日のマツダスタジアムでの対中日戦が引退試合となり、8回裏2死に小窪哲也の代打として出場。小熊凌祐が投じた0ボール2ストライクからの3球目の直球を打ち返すが、投ゴロに倒れる。9回表にはそのまま右翼に入り、2009年に開場したマツダスタジアムで初めての守備についた。試合後にセレモニーが行われ、挨拶をしている。2013年12月26日、球団主催イベントへの出演や商品開発への助言などを目的に、広島球団とアドバイザー契約を締結した。2014年には、広島市に本社を置く中国新聞の野球評論家や、テレビ朝日・広島ホームテレビの野球解説者も務める。基本的にプルヒッターであり、安打方向の内容は50%が引っ張り方向で、逆方向はわずか18%である。現役時代は投手の山本昌を苦手としていた。通算打率.302は、7000打数以上の選手中では歴代5位に位置する。入団当時、川上哲治、王貞治、落合博満、若松勉などに積極的に打撃の指導を乞いに行き、川上からのアドバイスでグリップの位置を修正した。トップが浅く、コンパクトな打撃フォームについては、「自分はまずミートして、球を確実にとらえることが近道だと思ったから、自然とそうなった」と説明している。ただし、キャンプの時だけはバットを何本も折るようなフルスイングをして、自分の状態を確かめていたという。柔らかいバッティングをするのが特徴的で、前田本人も2007年のインタビューで「ガツガツいっているような感じはないですね」と述べている。これについて、前田は「タイミングをゆっくり取りたい」「スイングもゆっくり振りたい、スイングは遅いくらいでちょうどいい」と語っており、栗山英樹は「ゆっくりバットを引いてタイミングを取ることで、一連の動きをすべて『動』から『動』にできる」「何百回も目いっぱい速く振るのはどうしてもブレが出てくる。遅いスイングなら確かめながら振れるので、極端に言えば、バットがどこにあるのか全部わかって、同じように振れる。ゆっくりなスイングで振るということは確実性が増す。ゆっくりなスイングで遠くへ飛ばせる、速い打球が打てるというのはある意味『究極の理想』のはずなのだが、そこに向かっているということなのだろう」と分析している。また、そのスイングで長打を打てることについて、栗山は「(前田は)下半身の使い方が非常に優れていることと、力が外に逃げない理想的なスイング軌道によって、無駄なくボールに力強さを伝えられている」と続けており、前田のバッティングについては「究極のシンプル。『シンプル・イズ・ベスト』といわれる意味の、本当の意味が前田選手なのかな、と思います」と評している。アキレス腱を故障する以前は俊足好守の選手としても活躍し、中堅手を務めていた。1998年からは足の負担を軽減するため中堅手から右翼手へコンバートされ、2003年以降は移籍した金本知憲に代わって左翼手を守った。プロ入り1年目、開幕早々のヤクルトスワローズとの公式戦に出場した。当時ヤクルト監督であった野村克也は前田が素晴らしい選手なのに自チームのドラフト候補にも上がっていなかった事に対し、「なんであの選手がうちのリストにないんだ」とスカウトをきつく叱責した。その際、スカウトが「打撃に目をつぶってくれるなら、いい選手がいます」と代わりに推薦してきたのが、古田敦也と宮本慎也であった。前田の広島入団当時に監督を務めていた山本浩二は、「まず何よりユニホームの着こなしが気に入った。こういう選手は成功するんです」、「バッティングを見て、もっと驚いた。トップの位置がピタッと決まっていて軸がブレない。フォームも崩れない。相手ピッチャーに関係なく、全て自分のスイングでボールを処理している。だから、打球は詰まってもヒットになる。技術的には何も教えることがなかった。こういう子を天才というんだと思いましたね」と振り返っている。落合博満は、1999年のインタビューで「今の日本球界に、俺は2人の天才打者がいると思っている。1人がオリックスのイチローで、もう1人が前田なんだ」と語り、「分かりやすくいえば、前田は『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』の家康タイプ。『鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス』の秀吉タイプが、イチローだ。つまり前田は、いかにしてボールを自分のポイントまで呼び込んできて、自分の形で打つかという打撃のお手本。イチローは、そこへボールが来ないなら、自分が体を寄せていってそのポイントで打つという打撃なんだな」、「前田の打撃は、プロ野球50年の歴史の中で、ずっと理想とされてきたフォームといえる。みんながお手本にしていい、生きた教材」と高く評価し、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」「真似して良いのは前田だけ」と言う事が多かった。今中慎二は「僕の中で特別な存在は前田と落合(博満)さんのふたりだけ」「ランナーがいる時の集中力は凄かった。『ヒットなら仕方がない』と諦めにも似た気持ちで投げていました。僕を『コノヤロー!』という気分にさせたのは後にも先にも彼(前田)だけですよ」と語っており、伊藤智仁は「僕が対戦したバッターではナンバーワン。バットコントロールが天才的で全く弱点がなかった」「本気になった前田には、どんなボールも通用しなかった。顔色やしぐさで『こいつ、ヤバイな』と分かるんです。(中略)どのコースも、どんなボールもバットの芯でとらえる技術を持っていました」と述べている。槙原寛己は前田について、「真ん中のボールは平気で見逃すくせに、難しいボールは確実にヒットにする。乗っている時と乗っていない時とで、あれほど差のあるバッターもいなかった」と評している。また山本昌は前田の現役引退時、「天才とよく言われるが、努力の天才だと思う。鬼のような形相でティー打撃をしていた印象が強い。すごい打者だった」とコメントを寄せた。チームメイトであった緒方孝市は、引退後に「23年間、いろんな選手を見て、 それで言うと自分の中でナンバー1は前田智徳。それこそ武士みたいな表現をよくされるけど、まさにそのとおり。 独特の世界を持ってるし、あれは何か命かけた真剣勝負してますよ。野球じゃない何かに自分の命かけてる感じ」と語っている。投手に対しては常に本気の対決を望んでいた。あるオープン戦の対ヤクルト戦で、前田用のワンポイント・リリーフで技巧派の左投手が登板した。バットを1度も振ることなく見逃し三振を喫し、怒ったような表情でベンチに戻ってきた前田に、川口和久が「なんで振らないんだ?」と尋ねたところ、前田は「あんなのは(気のない甘い球を投げるのは)ピッチャーじゃない。バットを振る気にならんのです」と答えたという。川口は「彼らしいな、と思いましたよ。前田には独自の美学があって、『こんなボール、打つに値しない』と思ったんでしょう。彼はホームランを打ってもブスッとしていることがよくあった。『うれしくないの?』と聞くと、『今のはとらえ方がマズかったですね』と言ってうつむいてしまう。『まぁ、いいじゃないか。ホームランなんだから』と慰めると『いや、そういうもんじゃないんです』と、こうですよ。逆に凡打に倒れてもニコニコしている時があった。彼の中では満足できる何かがあったんでしょう」と振り返っている。松井秀喜は前田のアキレス腱断裂後の1995年、「週刊ベースボール」誌上の「『男』を感じさせる選手は誰か?」という設問に、他の11球団の選手が自球団の選手の名前を挙げる中、「前田さんの背中に『男』を感じます。(中略)打撃が素晴らしいし凄みもある。広角に打てるしチャンスにも強く、いつも打ちそうな雰囲気が漂っている。日本で一番いいバッターかもしれません」と述べた。また、若手時代のイチローは「あの人(前田)のバッティングにはかなわない」と語っている。1994年のオールスター戦では、この年に初出場したイチローはオールスター選出にあたり前田について「真っ先に会いたい」と話し、自らセ・リーグチームのベンチに出向き、初対面の前田に笑顔で握手を求め、握手の際に写真を撮っている。打撃コーチだった水谷実雄は、前田について「例えば、試合中にピッチャーにやられると、ものすごい悔しい顔をする。悔しくてたまらない顔をする。それで、センターに守りにいく時、時間がかかってしまう」、「ものすごく引きずるタイプ。尾を引く。(気持ちの)切り替えがヘタクソ。だから、やり返そうと練習する。負けることに対する悔しさが、人一倍強い。『守りと打つのは別にしろ』と何度も諭したんよ。ただ前田の気持ちはほんまに、こっちにもようわかるんで、周りから『チンタラしやがって』と言われた時は、その人たちを自分がいなしたり、おさめたりしたこともあった」と語っている。阪神のコーチを務めていた2013年、マツダスタジアムで最後の対戦の時には引退を表明した前田が挨拶にやってきて、水谷が「前田、もう苦しまんでええのぉ」と声をかけたところ、前田は水谷の胸にすがって泣き出したという。ヒットや本塁打を打っても納得のいかない打球には首を傾げるなど、ストイックに野球に取り組む姿から「侍」とも称された。北別府学は前田のことを「職人」と表現している。前田は「単純に良い打球を打つためにやっていたので、やはり良い打球がいかないと、良いスイングができてもフラストレーションが溜まる」と語っている。また前田は若手時代に「ヒットはバットの芯でボールを捉えたものだけを言う」と発言したこともあるなど、オリオンズの打者であった榎本喜八の理想を求める打撃理論と類似点が多く、スポーツジャーナリストの二宮清純は前田へのインタビューのタイトルで「前田智徳に、榎本喜八の幻影を見た」と評している。イチローから「自分は天才じゃない。天才とは、前田さんみたいな人」、「僕のことを天才だという人がいますが、本当の天才は前田さんですよ」、落合博満から「天才は俺じゃない。前田だよ」と評価されるなど、現役時代は球界関係者達から「天才」と形容されることが多かった。しかし前田自身はそれについて、引退後に緒方耕一との対談で、「過大なる評価を受けて、実力以上の評価をされてきたので、現役時代はそういった意味でも非常にしんどかったという思いはありました。ただもう現役を引退しましたので、そういうものから解放されてもいけるので、非常にホッとしているところです」、「天才なら.380とか.390とか打ちますよ。僕は並の選手なんで3割くらいなんです。野球の神様が、お前は選ばれた人間じゃないからここで怪我して頑張れよ、って試練を与えてくれたんだと思いますね」と述べている。前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、前田自身が目指すレベルが異常なまでに高く、その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といった事を繰り返していた。水谷実雄は前田について「人見知りするタイプやけど、礼儀正しい謙虚な性格。ルーキーの時から観察力がすごいね。人のバッティングを見たり。見る角度のセンスもあった」、「野球に対して真面目なヤツやな。謙虚。謙虚だからひたすら練習する」と述べている。大の甘党であり、つぶあんやアイスクリーム、ケーキが好物である。また、ゴルフを趣味としており、球界きってのゴルフ通である緒方耕一からその腕前を称賛されている。チームメイトであった浅井樹とは高卒同期入団で、戦友でありライバルであった。浅井は当時「北陸の最強打者」と呼ばれ広島に入団したが、同期の前田の打撃に目を奪われ、後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と述べている。以来2人は、選手寮で掃除・洗濯・電話番と常に苦楽を共にし、殴り合いの喧嘩をすることもあったという。その後前田は一軍で活躍し優勝も経験するが、浅井は3年間ほぼ1軍経験がなかった。1995年、前田がアキレス腱を故障し、代わりの外野手として1軍に呼ばれたのが浅井だった。2006年、同期は前田と浅井の2人だけになり、同年に浅井がメニエール病を発症。浅井が独りになって現役引退を意識していた時、それまで一度も電話をかけあったことのなかった前田から電話がかかってきたという。浅井は「彼なりに気にかけてくれていたのはうれしい思い出」と振り返っており、同年10月16日の浅井の引退試合では、前田は本塁打を含む4安打を放ち、セレモニーでは浅井に花束を渡して号泣した。浅井は「若い時にはいがみ合うこと、ひがむこともあった。(中略)最後、彼の中に僕という存在がちょっとでもあったのがうれしい。僕の中では(前田は)永遠に特別な存在」と語っている。高校3年時の1989年夏、全国高等学校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい! ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場した。甲子園初戦の日大三島戦で、前田は1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあった。前田の恩師で野球部長だった田爪正和は、当時について、「まさか、と思いましたよ。こういうことは練習試合でもあったんです。たとえヒットを打っても、それが気にくわない当たりだと、彼はこうなってしまうんです。でも、ここは甲子園ですよ。そんなこと言っている場合じゃない。『頼むから行ってくれ。守備についてくれ』と私は拝み倒しましたよ。審判は『何をやっているんだろう』と思ったんでしょうが、まさかヒットの内容が気にくわんから守りにつかん、とは想像もせんかったでしょう。そんな高校生、甲子園史上ひとりもおらんはずですよ。何とか拝み倒して守備についてくれた時にはホッとしました」と振り返っている。1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。ある日の練習中、達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した。プロデビューして間もない頃、二宮清純に「理想の打球は?」と尋ねられたところ、「ファウルならあります」と答えた。1992年の二宮のインタビューでは「打席に立つ目的は?」と聞かれて、しばらく考え込んだ後、「理想の打球を打ってみたい、ということかなぁ」と答えた。また、二宮の同インタビュー内で「どんな打球が理想かと問われても、まだよう分からんですけど。イメージとしては頭にあるんです。それを言葉にできれば苦労しないんでしょうけどね。とにかく、(理想の打球への夢は)簡単に諦めたくない。そのこだわりがなくなったら、僕はおしまいでしょう」、「自分を追い詰めるのは恐怖から。今日打てても明日打てると言う保証はない。毎日が怖くてたまらない」、「内容のいいヒット、自分で納得出来るヒットを一本でも多く打ちたい。それしか考えていません」と発言するなど自らの持論を述べた。打撃コーチだった水谷実雄は、1990年代前半に前田について、「彼は自分のためになると思ったら、とことんそれをつきつめて行く力がある。その反面、野球に対する意識がひとつ飛び越えたところにあるだけに、仲間から浮いてしまう危険性がないこともない」と評していた。北別府学が先発だった試合の1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。前田は8回表一死一塁の場面で石毛博史から決勝打となる右翼席最奥への勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せたあと涙を流しながらダイヤモンドを一周した。試合後のヒーローインタビューは拒否し、無言で球場を後にした。達川光男によると、前田はその後もロッカールームや宿舎に帰るバスの中でもずっとバスタオルを頭にかけたまま項垂れ、誰とも一切喋らなかったという。北別府は後年に「試合後、守備の後逸を猛省していた前田に、私は『気にするな』と声をかけましたが、前田は泣いちゃって、泣いちゃって・・・。大変でした」と述べている。後日、決勝本塁打について前田は「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、本塁打後の涙については「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている。1994年5月18日の対巨人戦(福岡ドーム)で、広島は巨人・槙原寛己にプロ野球史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った。1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。前田は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった。右アキレス腱を断裂した1995年、前田は故郷に行き、高校時代の恩師・田爪を訪ねた。慰めの言葉を口にした田爪に、前田は「先生、足が取りかえられるもんなら、取りかえたいんじゃ・・・」と言った。それまで一度も弱音を吐いたことのなかった教え子の返答に、田爪は言葉を詰まらせたという。アキレス腱断裂は前田の野球人生にとって大きな転機となり、前田は1996年春のあるインタビューで「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。(野球をやってきて)これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っている。また、右アキレス腱には既に前年から不安を抱えており、早く治さなかったことを後悔していたと明かしている。1998年8月もしくは9月に行われた試合の後、タクシーで球場を出ようとした前田に女性ファンが「前田さん、がんばってください」と声をかけたところ、前田は「お前に言われんでもわかっとるわ」と大声で言い返した。朝日新聞の西村欣也編集委員は、前田の言葉はユーモアにくるんだ言い方ではなくその場の空気が凍りついたとして、「野球選手はバットとボールで話をするという姿勢は彼の魅力のひとつでもある。しかし、それならば沈黙を貫くべきだろう」「ファンに暴言に近い言葉をぶつけてしまうのは、やはりプロフェッショナルとして欠けている部分があるというしかない」と記している。2000年、江藤智がFAの権利を行使して巨人へ移籍。新4番として迎えた3月31日、開幕戦の対巨人1回戦(東京ドーム)では、2回表に回ってきた初打席で巨人先発上原浩治から先制ソロ本塁打、4回には二塁打、8回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、5-4で逃げ切った。前田はヒーローインタビューで開幕4番について「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど(監督に)『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」と話し、さらにチームのムードについて「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きいし、これから頑張っていきたいと思う。みんなで力を合わせて頑張るっていうのがウチの野球なんで」と語った。この「みんなで力を合わせる」という文言は同年シーズン序盤、前田の常套句となった。同年7月、左アキレス腱が伸び切って炎症が悪化し、断裂の恐れがあることが判明した。27日に左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除する手術を受け、長期離脱。フリーエージェントの権利を獲得したが、「まだ乗り越えなくてはいけない物がたくさんあるし、カープで最後までいいプレーをしたいという気持ちになったので、今回はFA宣言というものは自分には関係ないという気持ちです。大きな怪我もあったがここまでやれるとは思わなかったし、チームとファンに恩返ししたい。今年権利を行使しないということは、来年もしないという事です」と広島に残留する旨を表明した。通算安打数「1999本」で迎えた2007年9月1日の対中日ドラゴンズ17回戦(広島市民)、前田は4打席凡退していたが6対7とリードを許して迎えた8回裏、広島は代打嶋重宣の3ランで逆転し、その後も攻め立てて二死満塁とし、打者一巡して前田の打席を迎えた。前田は久本祐一の3球目を右前へ運ぶ2点適時打を放ち、プロ通算2000本安打に到達した。前田は一塁上で笑顔を見せ、長男・二男から花輪を受け取った。この回広島は一挙8点を奪い、試合は14対7で勝利。試合後、お立ち台に立った前田は「自分個人の事でここまで騒がれるのは非常に残念な事。ここまでチームの戦い方を考えると悔しい思いばかりだし、自分が(怪我などで)いいシーズンを送れていないので、責任を感じています」「怪我をして、チームの足を引っ張って・・・。こんな選手を応援して下さって、ありがとうございます」と声を詰まらせた。そして「最高の形で(自分に打順を)回してくれたので、ここで打たなきゃと思った。今日という日は一生忘れないと思います」と語った。その後、記念のボールを手に場内を一周してファンの声援に応え、チーム全員で記念撮影を行った。また試合後の記者会見では「今日は何となく負けるような展開だったが、みんなが凄い力を発揮して、最後に打たせてもらった。18年やっているけれど、こんな凄い試合は初めてです」と8回の攻撃を振り返り、「こういう記録を達成できて、こんな選手にいろんな声援を送ってくれたのに、充分応えることができなかった。これからも暖かい応援を頂きたい」とファンにメッセージを送った。
出典:wikipedia
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