一元論(いちげんろん、、、)とは一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語である。これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。あらゆる存在の原理を研究する形而上学において一元論はその原理を単一と規定してきた学説である。一元論の基本的な考え方は世界に見られる多種多様な実体の一般化を通じて統一的に世界を理解しようとするものである。同時に一元論の思考様式は因果性とも関連しており、多種多様であることの原因をも単一であるものと考える。バールーフ・デ・スピノザは二元論に対する批判を通じて古典的な一元論の議論を展開した哲学者である。スピノザの学説の中心にあったのは究極的な原因としての神を前提とする汎神論である。彼は自然に見られるさまざまな様相に神の諸属性を見出している。また人間の精神と身体を区分する心身二元論に対しても、どちらかが先立つものではなく、それらは同一のものの二つの側面であると考えていた。この一元論についてはスピノザ以外にはプラトン、ライプニッツ、ヘーゲル、ムーアなどが研究しており、東洋哲学ではヒンドゥー教 (アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)やヴィシシュタ・アドヴァイタ等)、 ユダヤ教(特にカバラ思想)、キリスト教(特に東方諸教会、正教会、イングランド国教会)、イスラム教(スーフィズムの中の特にベクターシ派の中には、一元論的な多神教や一元論的な汎神論を唱える流派がある。ヒンドゥー教の宗教文書であるヴェーダには、存在なき存在、息(生命)なき息(生命)、宇宙的存在に自己投影される単独の力への言及がある。ヒンドゥー教の中で最初に明確に絶対的一元論を唱えたのは、シャンカラの唱道するアドヴァイタ・ヴェーダンタである(アドヴァイタは「不二」すなわち非二元論の意)。これはヒンドゥー教の6つの哲学体系のうちの一部で、ウパニシャッド哲学を基礎にしており、究極的なモナドとしてブラフマンと呼ばれる無定型で神聖な基底があると見なす(梵我一如)。こうした一元論的な思考は、ヨーガや非二元論的タントラといった他のヒンドゥー教流派にも広がっている。別のタイプの一元論はラーマーヌジャ学派やヴィシシュタ・アドヴァイタによるもので、世界が神(ヴィシュヌ)の一部であるとする。汎神論ないし万有在神論の一種であるが、この最高存在の中に魂や実体が複数含まれるとする。このタイプの一元論は一元論的有神論と呼ばれる。ヒンドゥー教では、内在的かつ超越的で普遍万能の最高存在としての人格神の概念が優勢である(一元論的有神論を絶対的一神教と混同しないこと。絶対的一神教は神を超越的とのみ考えるから、全てに現前する内在的な神の観念は不在である)。仏教では、ヒンドゥー教のリグ・ヴェーダに描かれる形而上学的実体とも言うべきブラフマンといった「かの一者 ted ekam」を認めないが、仏教もやがて一元論的思想を深め、唯識説などの大乗仏教がそれを追求することになった。例えば、真如や実相である如来蔵や、仏性についての理論は、仏教がたどり着いた、一種の一元論である。ユダヤ教では、2つの相互に関連する理由から、神は創造に内在的であると考えられている。ただし、ユダヤ教では、神はすべての物質的な被造物から分離されており、時間の外にあるということを銘記すべきである。ユダヤ教的伝統のもとにおける否定神学(カバラにおけるツィムツーム)においては、神は、有限な世界が存在する概念的空間を準備するために、みずからの無限の本質を「収縮」させたとされる。一元論には様々なタイプがあるが、それぞれの理論において究極とされている存在は、"Monad"(モナド)という言葉で呼び表される。モナドという言葉は「単一の、単独の」といった意味を持つギリシャ語 μόνος (モノス)に由来し、古代ギリシアのエピクロスやピタゴラスによって最初に用いられた。以下に掲げるソクラテス以前の哲学者が、世界を一元論的なものとして記述している。古代ギリシャではそれは、おおむね「アルケーは何か?」という問いに答えるような形で表現された。以下、論者とそれぞれの考えの主旨を記す。(以上に対して、エンペドクレスは地、空気、火、水の四元素説を唱えており、一元論ではない)また、ソクラテス以降の哲学者の中では、キリスト教はユダヤ教から生まれた一神教であるが、同時に、成立の初期段階で教父らによって古代ギリシャ哲学を取り込んでいる。キリストは神性と人性をもつという両性説を採るという意味では、一元論的な説と二元論的な説が結合されているといえる。プロティノスが唱えたようなネオプラトニスムにも似ており、究極的には世界に、超越的かつ内在的で、万能で神聖な神しかいないと考えている。偽ディオニシウス・アレオパギタも参照。アウグスティヌスは『自由意志論』の悪について論じた部分で、悪は善の反対物であるというよりも、善の不在にすぎないと述べている。つまり悪はそれ自体としては存在しないものなのである。同様に、著名なキリスト教者であり『ナルニア国ものがたり』の作者であるC・S・ルイスも著書『キリスト教の精髄』の中で、善があって初めて悪があるのであって、悪は単独では存在しないと述べている。さらにルイスは道徳的絶対主義の立場から二元論を批判し、神に比肩するものはないのだから、神と悪魔(サタン)が拮抗するという二元論的観念は認められないとしている。ルイスによれば、悪魔はむしろ大天使ミカエルの敵対者である。ウァレンティヌス派はキリスト教の一派であり、紀元2世紀に生きたグノーシス主義の神学者ウァレンティヌスにちなんでこう呼ばれる。一般にはグノーシス主義は二元論的とされているが、ウィリアム・シューデルによれば、「ウァレンティヌス派その他のグノーシス主義解釈の標準的要素は、それが根本的には一元論的だということを認めている。ウァレンティヌス派の資料によれば、神(ただし認識できるペルソナをもつとはいっても、典型的な正統キリスト教の超越的実在の概念というよりも、言語に絶するネオプラトニズム的なモナドに似ている)が万物に浸透しており、物質世界は錯誤の上に成立しており、われわれの知覚も誤りである。ウァレンティヌス派によって物質世界がモナドの「外」にあると説かれることもあり、現世にある無知なわれわれの生活は悪い夢にすぎないとする文章もある。様々な解釈が可能である。非一元論的解釈もあるし、半一元論的な解釈も出されている。「モナド」という概念自体は単一性を指すとも、不可視の隠された神という単一の本質を指すともいえる。同様に、「モナド」という言い方で精神原理の唯一性を意味することもある。様々な認識の状態を空間的用語で記述するのはグノーシス派の隠喩に典型的なやり方であり、ウァレンティヌス派でもよく見られる。スピノザのように、汎神論を唱える一元論者もいるが、全ての汎神論者が一元論者であるわけではない。多神論者であることも、多元論者であることもある。同様に、全ての一元論者が汎神論を唱えるわけではない。排他的一元論者は、汎神論者のいう世界や神は存在しないと考えている。また理神論を唱える一元論者もいる。万有在神論的な一元論の場合、万能で完全に浸透した一神教的神が、世界に内在し、かつ超越的にも実在していると信じる。ゴットフリート・ライプニッツは、実体的には多元論だが、物体を現象とし、神まで含めてモナドの一種類と見なしたという点では、一元論と言える。また、ジョージ・バークリーは、物体の実在性を否定し、無限精神である神(the God)と人間精神のみを実体とした非物質論を展開した。これも一元論と言える。東洋のインド哲学の多くの学派(ヴェーダーンタ学派、ヨーガ学派、シヴァ神を奉じる一部の学派など)、道教、 汎神論、 ラスタファリ運動といった思想体系では、神秘主義的・心霊主義的な立場から一元論的哲学の探求が行われているが、これらの思想体系が西洋で広く知られるようになるにつれ、西洋の心霊主義的哲学的風潮が一元論への理解を強めた。さらに言えば、ニューソート運動は100年以上前から多くの一元論的な主張を取りこんできた。スピリチュアリティという観念と心身統一という一元論的原理とは相矛盾すると唱えるという点では、一元論と宗教哲学とは正反対と言える。しかし、宗教とスピリチュアリティを英知の源泉と考えると、どんな宗教哲学より一元論が根本的であるとも言えよう。最近では、一元論は以下の3つの基本的なタイプに区分されることもある:また一元論は以下の3種類に分けることもできる。ただし上記の分類のどれにも当てはめにくい立場もいくつかある。例えば、英語のページ
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