アンドレス・ホセ・パドヴァニ・ガララーガ(Andrés José Padovani Galarraga , 1961年6月18日 - )は、ベネズエラ出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。現役時代は「ビッグ・キャット」という愛称で親しまれた。1978-79シーズンにベネズエラのウィンターリーグでデビュー。当時モントリオール・エクスポズの監督だったフェリペ・アルーの推薦で、1979年1月にドラフト外でエクスポズと契約。にはマイナーリーグの2AでMVPを受賞。には3Aでルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、メジャーに昇格。8月23日のドジャース戦でメジャーデビューを果たす。同年、24試合に出場し、打率.187・2本塁打を記録している。は105試合の出場で、10本塁打・42打点を記録。は打点を90の大台に乗せ(90) 、打率も.300をマークした(.305) 。はデビュー3年間の通算本塁打25本を上回る、シーズン29本塁打を記録。オールスターゲームに初めて出場した。打撃面での活躍が評価されて、この年にシルバースラッガー賞を受賞。からの2年間は打撃面では打率が2割5分台だったが、守備面での活躍を評価され、2年連続でゴールドグラブ賞に選出されている。は本塁打が2ケタに届かず、打率も.220を下回った。ルーキーイヤーを除いたデビュー以来、自己最低の数字に終わってしまう。1991年11月25日にと交換で、セントルイス・カージナルスへとトレード移籍。シーズン2試合目4月7日のメッツ戦で、死球により右手首を骨折。この故障で44日間故障者リスト入りしたため、前年よりも少ない出場試合数となったが、前年より多い本塁打と打点を記録。シーズン終了後FAとなった。1992年オフにコロラド・ロッキーズと契約した。ロッキーズ移籍1年目の1993年は120試合の出場で、本塁打22・打点98を記録。更に打率.370を記録し、首位打者のタイトルを獲得。右打者ではジョー・ディマジオが1939年に打率.381を記録して以降最高だった。また、ベネズエラ出身選手として初の打撃タイトル獲得となった。そしてカムバック賞も受賞。は1994年から1995年のMLBストライキのあった年だったが、ガララーガは打率.319・31本塁打・85打点という成績を残した。には自身初の100打点を突破(106)。は自己最高の159試合に出場で、47本塁打、150打点を記録し、自身初の最多本塁打と最多打点のタイトルを獲得。更に、シルバースラッガー賞にも選出された。は41本塁打・140打点と前年より数字が落ちたものの、2年連続で打点王のタイトルを獲得している。1997年シーズン終了後、ロッキーズはガララーガに対し2年契約を提示したが、ガララーガはワールドチャンピオンになるため、フレッド・マグリフの後釜としてアトランタ・ブレーブスへ3年総額2,480万ドルでFA移籍した。は打率.305・44本塁打・121打点を記録。に非ホジキンリンパ腫という癌の告知を受ける。その為、癌の治療に専念。に癌細胞が消え去ったため復帰し、2度目のカムバック賞を受賞した。オフにFAとなった。2000年オフにテキサス・レンジャーズへ入団した。7月24日にチーフ・マグルダー、エラスモ・ラミレス、トッド・オジアスの3選手と交換にサンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。49試合で7本塁打を記録する活躍を見せた。オフにFAとなった。3月7日にモントリオール・エクスポズと契約を結んだ。この時はレギュラーポジションを確保するには至らなかったものの、104試合に出場。2002年オフに再びサンフランシスコ・ジャイアンツに入団した。は2000年以来となる打率.300を記録。しかし11月に癌が再発し、入院する事になってしまった。ガララーガは再入院となった時、この事を外部へは一切知らせなかった。8月6日、復活したガララーガはアナハイム・エンゼルスと契約を結んだ。7試合に出場して本塁打1を記録。通算本塁打を399本とした。同年の11月1日にFAとなった。ニューヨーク・メッツとマイナー契約を結んだ。しかし、翌の春季キャンプ中の3月29日、若手にチャンスを与えるため引退を発表した。ベネズエラ出身選手としての最多本塁打記録を保持していたが、5月16日にミゲル・カブレラに更新された。3月に第2回WBCのベネズエラ代表コーチを務めた。3月に第3回WBCのベネズエラ代表コーチを務めた。
出典:wikipedia
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