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大阪市立都島工業専門学校 (旧制)

大阪市立都島工業専門学校 (おおさかしりつみやこじまこうぎょうせんもんがっこう) は、1943年 (昭和18年) に設立された旧制専門学校。略称は都島工専 (みやこじまこうせん)。1945年4月に大阪市立都島高等工業学校 (都島高工) から改称した。本項では、改称前後の両校について扱う。都島高工の母体校となった大阪市立都島工業学校については、新制大阪市立都島工業高等学校の項を参照。本項では、制度上の変遷を略述するにとどめる (旧制高等工業学校は新制工業高等学校とは別制度の学校である)。旧制大阪市立都島工業学校を母体に、大阪市立都島高等工業学校として設立された。都島高工創立時には、本科 (修業年限 3年) に機械工学科、電気工学科、建築工学科、土木工学科を設置した。第二次世界大戦中に大阪市立都島工業専門学校 (都島工専) と改称された。新制大阪市立大学理工学部 (現 工学部・理学部) の前身である。 同窓会は 「大阪市立大学工学部同窓会」 と称し、新制大学卒業者と合同の会である (都島工業学校の同窓会 「社団法人 浪速工業会」 とは合同しなかった)。大阪市立都島工業学校は 6年制工業学校であり、一般の旧制工業学校より 1年分修業年限が長かった。そのため同窓会 「浪速工業会」 は、1931年8月から高等工業学校への昇格運動を始めていた: (案1) 修業年限を延長、7年制高等工業学校とする案。 (案2) 本科5年の上に 3年制の高等科 (高等工業学校) を併置する案。しかし、大阪市当局は、財政難を理由に応じなかった。1943年1月、中等学校令 (昭和18年勅令第36号) が公布され、6年制だった都島工業学校は 4年制に短縮されることになった (4年制適用は 1943年入学者から)。大幅なレベルダウンが避けられなくなり、ようやく大阪市当局は高等工業学校の併設に応じた。設立当初は、母体となった都島工業学校と同居していた (都島校舎、現大阪市立都島工業高等学校の校地)。1945年6月の空襲で一部の設備を失い狭隘となったため、1945年9月の学校再開時、旧北天満国民学校校舎を分教場とした (建築科・土木科、北天満分教場。大阪市北区浪花町)。分教場は翌 1946年4月に旧管北国民学校に移転 (管北分教場、大阪市北区管栄町)。1946年10月、都島工専全校が桃ヶ丘仮校舎に移転 (大阪市天王寺区北山町の旧桃丘国民学校、現大阪市立天王寺図書館敷地)。後身校、新制大阪市立大学理工学部は大阪市北区の元北野小学校校舎 (旧扇町商業高等学校校舎、北野校舎、現北税務署敷地) で発足したのち、1959年の理工分離を経て、理学部は1962年9月 (原子力調査研究室は1968年8月)、工学部は1966年8月までに現在の杉本校舎 (大阪市住吉区) に移転した。学生寮は大阪市都島区高倉町三丁目 (当時) にあった旧軍需工場の宿舎を転用したもので、1946年頃から入寮が開始された。初期の寮生、金田龍之介の提案によって 「都風寮」 と名付けられ、1951年3月、都島工専の廃止と共に新制大阪市立大学に引き継がれた (但し、正式の大学寮として認められたのは1956年7月)。老朽化のため、1977年に新寮が杉本校舎の一角に設置されたが、寮管理規定をめぐって寮生と大学当局との間で対立が発生。膠着状態の中、1977年1月17日、一部の都風寮生により新寮への入寮が強行され、「志全寮」 となった。都風寮は志全寮誕生と共に廃止となった (志全寮も中核派の事実上の出撃拠点として使用されたため、最終的に1997年8月、明け渡し強制執行により終焉した)。

出典:wikipedia

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