劉 暁波(りゅう ぎょうは、リウ・シャオポー、1955年12月28日 - )は、中華人民共和国の著作家。元北京師範大学文学部講師。人権活動や民主化運動に参加し、度々投獄される。2008年に民主的立憲政治を求める零八憲章を起草して拘束され、2020年6月21日までの懲役刑の判決を受け錦州監獄で服役中。2010年にノーベル平和賞を受賞し、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。劉暁波は、「この受賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる。なお、投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935年に受賞したカール・フォン・オシエツキー、1991年に受賞したアウンサンスーチー(ただし、監獄ではなく自宅軟禁)以来、3人目である。吉林省の長春市で生まれる。1969年、上山下郷運動が行われている間、劉の父は、劉をホルチン右翼前旗に連れて行った。吉林大学で中国文学を学んだあと、北京師範大学に進学。1984年に修士号取得後、同校で教職に就く。1980年代半ば、文学評論家李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた。1988年、「美学と人間的自由」により、同校で文学博士号取得。その後、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学で客員研究員。1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、劉は他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍が天安門広場に突入する寸前、4人は侯徳健を推選し、学生たちに逃げ道を残すように軍と交渉し「四君子」と呼ばれた。事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他のリーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。2008年、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された。以後は外国要人訪中や人民代表大会会期中は自由を失い、電話・インターネットによる交信が遮断された。2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり2016年現在,遼寧省錦州市ので服役中。ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道された。2010年10月8日、劉暁波のノーベル平和賞受賞が発表された。ノーベル賞委員会は、劉暁波の受賞理由は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことで、劉暁波への授与の決定は有罪確定時の同年2月には「不可避の状況になっていた」こと、選考は全会一致であったことなどを発表した。受賞直後の各国での主な反応には以下がある。受賞発表直後に中華人民共和国外交部は「(劉の受賞は)ノーベル平和賞を冒涜するもので、我が国とノルウェーの関係に損害をもたらす」と批判した。更に中華人民共和国政府は在北京のノルウェー特命全権大使に対して劉のノーベル平和賞受賞に強く抗議を行った。また中華人民共和国の国内でノーベル平和賞授与決定を放映中のCNNやNHKワールドのニュース番組が遮断され、その後もインターネット上のメールや検索などの遮断が続いていると報道された。翌9日、中国各誌は授与を批判する中華人民共和国外交部報道局長の談話を報道する形で間接的に報道し、人民日報系の環球時報は「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具になった。平和賞を利用して中国社会を裂こうとしている」と批判した。受賞直後、海外メディアが自宅に住む妻劉霞にインタビューを試みたが、現地公安当局によって厳しく規制線がはられており、劉霞自身も電話インタビューに応じた直後、電話回線が通じなくなっており、事実上当局による軟禁状態にある。また世界各国での受賞への賛同意見に対し中国外交部は定例会見で「中国への内政干渉は許さない」、「現状で、中国の関係部門がノルウェー政府との協力推進を望まないことは理解できる」、「劉暁波は犯罪者だ。彼に平和賞を与えることは中国国内で犯罪を奨励することにほかならず、中国への主権侵害でもある」と主張した。2010年10月21日には劉暁波の釈放を求める署名活動を行っていた崔衛平北京電影学院教授が拘束された。10月29日には、ノーベル賞の歴代受賞者により服役中の劉暁波の釈放を求めるグループが結成されダライ・ラマなどが参加していると報道された。英国デーリー・ニューズ紙によると、2010年に開催された第60回ミス・ワールド大会では、開催国である中華人民共和国側から選考委員に対して「ミス・ノルウェーは低い点に抑えるよう」との露骨な圧力がかけられ、本命だったミス・ノルウェーのマリアン・バークダルは、5位にも入ることができなかった。これはノルウェーが中国の民主活動家である劉暁波にノーベル平和賞を授与したことに対する対抗措置であるといわれている。中国政府は2010年10月下旬以降、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、12月10日にオスロ市庁舎にて行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。さらに、式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないように促した。また、北京にても諸外国の外交官に対して、同じ要請をした。授賞式当日は17か国が欠席した(中国・ロシア・カザフスタン・チュニジア・サウジアラビア・パキスタン・イラク・イラン・ベトナム・アフガニスタン・ベネズエラ・エジプト・スーダン・キューバ・モロッコ)。授賞式当日には、中国政府は人権活動家のモンゴル族のハダを釈放したが直後に拘留した。劉にノーベル平和賞が授与されたのを機に、世界で活動している中国人民主化活動家(民主中国陣線、中国民主団結連盟)、チベット独立派、ウイグル人独立運動家らがオスロに集結し、横の連携を誓う「オスロの誓い」が公表された。各団体はこれまでに主導権争いなど内部対立の問題を抱えることもあったが、オスロでの会談の結果、運動をまとめる展開が見えたとした。ニューヨーク在住の胡平(雑誌「北京の春」編集長)は「世界中に散っていた私たちが一堂に会することができた。当面は力を合わせて『劉暁波氏の釈放』を求めていくことで一致した」とし、またスイス在住のチベット独立運動家ロブサン・シチタンも「これまでは中国人活動家とほとんど関係なく活動してきたが、これからは一緒にやっていきたい」と語り、ウイグル人独立ペンクラブ会長カイザー・ウーズンとともに中国人活動家らとの連携を示した。2010年12月8日、アメリカ合衆国下院本会議は、劉暁波の釈放を中国政府に要求する決議案を賛成402、反対1の圧倒的多数で採択した。2010年12月10日に開かれたノーベル賞授賞式において、ノルウェー・ノーベル賞委員会委員長のトルビョルン・ヤーグランは演説の中で「劉は何も悪いことはしていない」と、釈放を求めた。「告発、答弁、証言、判決」のうち、「判決」(抜粋)は以下のとおり。2009年12月23日に「私に敵はいない」と題する陳述が発表され、その二日後の12月25日に、国家政権転覆扇動罪により懲役11年の判決を言い渡された。また、この「最後の陳述」はノーベル平和賞授賞式で代読された。この陳述で劉は次のように発言している。また劉は、1998年に中国政府が、国連の国際人権規約や国際人権法などの国際人権条約の批准を約束したこと、また2004年に中国政府が憲法改正し、「国家は人権を尊重し、保障する」と初めて明記し、人権が中国国内統治の基本的な原則の一つになったことを「中国共産党は執政理念の進歩を見せた」と賞賛している。なお、中国政府はのちに国家人権活動計画を提出している。また、これまでの二度の拘禁について、北京市公安局第一看守所(拘置所。通称「北看」)の進歩を見たとしている。1996年の古い北看(北京市宣武区半歩橋)での拘禁と比べ、現在の北看は施設と管理が大きく改善され、「柔和になった」としている。さらに劉は、としたうえで、「私の国が自由に表現できる場所となり、すべての国民の発言が同等に扱われるようになること」を望むとした。と、劉は同陳述で述べた。日本の文藝評論家丸川哲史は、劉暁波およびそのノーベル賞受賞を批判している。岩波書店が2011年2月に刊行した『最後の審判を生き延びて――劉暁波文集』「訳者解説」において丸川と鈴木将久はノーベル賞受賞については「問いを立てておく必要」があるとして疑問点を述べ、「人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への授賞の理由「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国において人権問題で闘い続けてきた」こととは別のところで、授賞は劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する「内政干渉」と解釈されることとなりそうだ。その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる。」とノーベル賞受賞に対して疑問点を提出した。また丸川は、柄谷行人との「長池講義」において、劉暁波の思想が、ネオコン政治思想家として著名なアメリカのフランシス・フクヤマの思想を踏襲したものと解釈し、とりわけ『〇八憲章』14条における土地の私有化、15条における「財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる」という箇所について、新自由主義的であると指摘している。この丸川哲史らの解説および岩波書店について子安宣邦が厳しい批判を加えている。子安によれば、岩波書店および雑誌『世界』は、劉暁波が零八憲章を2008年12月に公表してから、中国民主化運動に関心を示すどころか、劉のノーベル賞受賞について雑誌において全く言及しないほど一貫して無視してきたにも関わらず、劉のノーベル賞受賞後、一転して劉暁波文集についての独占的出版権を得た。これに対して子安は「「良識」を看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたか」と驚いたとしたうえで、さらに丸川らの「訳者解説」について子安は「これは実に曖昧で、不正確で、不誠実な文章である。劉暁波問題という現実とあまりに不釣り合いな、いい加減な文章である。これを読んで、何かが分かるか。分かるのはこの「解説」の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。」と強く批判し、岩波書店に謝罪と訂正改版の処置を公開で要求した。なお、丸川哲史、鈴木将久、岩波書店とも、子安宣邦の批判に反応していない。
出典:wikipedia
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