吉四六(きっちょむ)は、大分県中南部で伝承されている民話の主人公。とんち話で知られる。江戸時代初期の豊後国野津院(現在の大分県臼杵市野津地区)の庄屋であった初代廣田吉右衛門(ひろた きちえもん)がモデルとされる廣田吉右衛門は、名字帯刀を許された地方の庄屋であった。しかしながら、吉四六と吉右衛門のつながりを示す史料はなく、また、廣田吉右衛門の名は7代にわたって代々受け継がれたため、どの代の吉右衛門がモデルであったのかも確かではない。一応は、吉四六話や野津地区にある初代吉右衛門の墓の調査から、吉四六のモデルとなった人物は初代廣田吉右衛門(寛永5年(1628年) - 正徳5年12月27日(1716年1月21日))であると見做されている。「きっちょむ」という名は「きちえもん」が豊後弁によって転訛したものである。また、同郷の頓智者として吉五(吉吾とも)という人物がいるが、彼も吉四六と同一人物とされる場合がある。吉四六は、一休、彦一と並び著名なとんち者であり、寺村輝夫他、児童文学、国語科教科書などにも題材として採り上げられていたこともあって知名度は高い。弱者や貧しい人に味方をしたことから現在でも人気が高く、地元の大分県では、焼酎の銘柄や吉四六漬など、その名を冠した商品も多数発売されている。また、九州旅客鉄道(JR九州)大分支社にはかつて「吉四六」の名称を持ったジョイフルトレインがあった(ジョイフルトレイン#過去のジョイフルトレインを参照)。吉四六にまつわるとんち話を吉四六話というが、これは一種の民話であり、廣田吉右衛門の伝記とは別物である。実際、吉四六話とは明治時代以降に大分県中南部の伝承を集めて編纂したもので、話数は二百数十に及ぶが、編纂の過程で脚色や創作が加えられている。たとえば、吉四六の嫁のオヘマは宮本清の創作である。そのほか、落語の演目(壺算やてれすこなどをアレンジしたもの)や他地方の伝承をそのまま郷土の伝承に置き換えたものも少なくない。吉四六話が初めて活字化されたのは明治30年代に新聞に連載された『吉右衛門譚』であった。その後、1925年(大正14年)から、宮本清によって大分県の地方紙「大分民友新聞」で連載され、1927年(昭和2年)に『豊後の奇人 吉四六百話』として単行本化されたことから大分県内で広く知られるようになった。この時に収録されたのは100話であったが、1934年(昭和9年)、1939年(昭和14年)には『豊後の奇人 吉四六さん物語』、1950年(昭和25年)には『豊後の奇人 吉四六さんものがたり』、1974年(昭和49年)には『吉四六ばなし』として徐々に増補され、収録話数は230にまで増えている<。一方、大分県外では、1926年(大正15年)に、柳田国男が主宰して東京で「きっちょむ研究会」が発足している。1977年度(昭和52年度)からは光村図書版の国語科教科書にも採用されている。説話の数は優に200を超えるが、その中でも代表的なものを採り上げた。他地域のとんち者のエピソードと内容が重なるものも多い。また、子供向けには適さない色話も存在するほか、失敗談や怪奇話などバリエーションも豊富だが、児童文学で採り上げられることは極めて少ない。ほか。なお、以上の説話の多くは宮本清著『吉四六ばなし』に収載されている。1973年(昭和48年)に大分県民オペラが吉四六昇天としてオペラ化(作曲:清水脩)して大分県内で上演。後に九州を中心に全国各地で上演され、さらにテレビで全国放送も行われた。主演の吉四六を大分県出身の立川清登が演じた。大分県民オペラ協会はこのオペラの上演等の活動により、1979年(昭和54年)にサントリー地域文化賞を受賞している。
出典:wikipedia
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