波多野 敬直(はたの よしなお、1850年11月13日(嘉永3年10月10日) - 1922年(大正11年)8月29日)は、明治・大正時代の官僚・政治家。司法大臣・宮内大臣などを歴任した。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等子爵。1850年(嘉永3年)10月、肥前国小城郡牛津(現・佐賀県小城市)に小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。小城藩校興譲館、大学南校などに学び、1873年(明治6年)、司法省に出仕する。1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、司法総務長官などを歴任した。1903年(明治36年)、第1次桂内閣で司法大臣を務める。1906年(明治39年)には貴族院議員(勅選議員)となった。1907年(明治40年)、日露戦争の功労として男爵を授けられ、華族に列した。1911年(明治44年)には東宮大夫として宮内省に転じる。1912年(大正元年)に東宮侍従長を兼任。1914年(大正3年)第2次大隈内閣で宮内大臣となり、以後1920年(大正9年)まで務めた。この間、1917年(大正6年)には功によって子爵にのぼった。1922年(大正11年)、73歳で死去。正二位勲一等旭日桐花大綬章が贈られた。丹波の戦国武将である波多野氏の一族・波多野宗高の末裔にあたるという。祖先は戦国時代に肥前の龍造寺氏・鍋島氏に仕え、小城鍋島家の家臣となって横尾を称していた。敬直は姓を波多野に復した。家督は二男の波多野二郎が継いだ。二郎は海軍軍人(海軍大佐)で、のちに貴族院議員を務めた。三男の波多野敬三は実業家となった。敬直の孫世代には、俳人の波多野爽波(敬三の長男、本名敬栄)、学習院長の波多野敬雄(敬三の四男)がいる。小城町長や佐賀市長を務めた野口能毅は、敬直の実弟にあたる。
出典:wikipedia
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