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デイヴィッド・サンシャス

デイヴィッド・サンシャス("David Sancious"、1953年11月30日-)は、アメリカ合衆国のミュージシャン。キーボーディストとして有名だがギターも弾きこなす。ブルース・スプリングスティーン初期のバック・バンド、Eストリート・バンドに加入し、3作のアルバム制作に参加する。1974年に同バンドを脱退後、自分のグループToneを結成、数枚のアルバムを発表した。その後、著名なセッションミュージシャンやツアーメンバーとして活躍し、スタンリー・クラーク、ナラダ・マイケル・ウォルデン、ズッケロ・フォルナチャーリ、ディディエ・ロックウッド、ジョン・アンダーソン、ピーター・ガブリエル、スティングらとの共演を数多くこなしている。ニュージャージー州、アズベリー・パーク生まれ。7歳からクラシックピアノを習い、11歳からは独学でギターを弾き始める。アスベリー・パークの音楽に初めて触れたときには、まだ10代だった。1960年代後半から1970年代初頭にかけて、同郷のブルース・スプリングスティーンや将来一緒にEストリート・バンド結成するサウスサイド・ジョニーやビル・チノックなども所属していた「Glory Road」、「Dr.Zoom & The Sonic Boom」、「The Bruce Springsteen Band」、「The Sundance Blues Band」など数多くのバンドで演奏した。 1972年1月、ヴァージニア州リッチモンド,に移り住み、アルファ・スタジオでスタジオ・ミュージシャンとしての仕事を始めた。多くのセッションをこなしていた頃、そこでドラマーのアーネスト・カーターと出会う。同年6月にはスプリングスティーンのデビューアルバム『"Greetings From Asbury Park, N.J."』にキーボード奏者として参加する。しかし、スプリングスティーンが後のEストリート・バンドとなるメンバーとライブ・ツアーを始めた時に、そこには加わらず1972年にはアルファ・スタジオに戻りアーネスト・カーターやガリー・タレントらとデモ用の曲をいくつか録音した。(後、このデモ曲はプロデューサー・作曲家のウェル・ファレルが権利を獲得し、1976年にディヴィッドらに断り無く発売した。) 1973年6月からデイヴィッドはEストリート・バンドの公演に定常的に加わり出した。彼は、モーツァルトやセロニアス・モンクの様なヨーロッパのクラシック的要素とジャズ的な部分をもイントロや間奏部分などに柔軟に取り入れ、バンド初期の音楽的性格に新たな様相を加えた。スプリングスティーンのセカンドアルバム『"The Wild, The Innocent, & The E Street Shuffle"』はデイヴィッドの才能が如実に発揮された1枚である。彼の貢献した部分として、「"Kitty's Back"」のオルガン演奏部分や「"New York City Serenade"」のピアノ前奏などがあげられる。さらには、他の曲での弦楽器の編曲、「"The E Street Shuffle"」でのソプラノ・サクソフォーン演奏など八面六臂の活躍を見せている。1974年2月、ドラマーのヴィニ・ロペスがバンドを脱退(クビになったとの説もあり)すると、友人のアーネスト・カーターを招き入れた。この2人は、スプリングスティーンの「"Born To Run"」録音に参加した。1974年、デイヴィッドとアーネストはEストリート・バンドを脱退し、ジェラルド・カーボーイ(bass)と新たなバンド・トーンを結成した。トーンは様々なアーチストと共演し、そこにはパティ・スキャルファ(後のスプリングスティ−ンの妻)、ゲイル・モラン(チック・コリアの妻)やサンタナのボーカリストのアレックス・リガートウッドらもいた。スプリングスティーンは彼のソロ活動を応援し、デモ・テープを音楽業界の有力者らに紹介するなどしてEpic Recordsとの契約まで導いた。トーンのデビューアルバム『"Forest Of Feelings"』はビリー・コブハムをプロデューサーに招いて制作され、1975年に発売された。これは、以前スプリングスティーンとともに仕事をしていた時の音楽とは根本的に異なり、プログレッシブ・ロックやジャズの融合を探求したものだった。 2作目の『"Transformation: Speed Of Love"』が1976年に発売され、3作目の『"Dance Of The Age Of Enlightenment"』の録音も行なわれていた。しかし、デイヴィッドとレコード会社との間で新レーベルArista Recordsの権利に関わる問題が生じ、この『"Dance 〜"』はお蔵入りとなってしまい、2004年になってやっと陽の目を見る結果となってしまった。トーンは別録音の『"True Stories"』を1978年に発表するが、その後すぐに解散してしまった。トーン解散後、デイヴィッドはソロ活動を行なうが、この時は2枚のアルバムを発売するにとどまった。1980年12月、WNEW-FMの企画で作曲・演奏したジョン・レノンを追悼する10分のピアノ曲も、当時彼の数少ないソロのひとつにあげられる。デイヴィッドの才能はクラシック、ロック、ジャズ、ブルースからファンクまでジャンルを問わず発揮され、それが返ってソロ活動を阻害したのではとも言われている。その代わり、周りからの尊敬を集め、ピーター・ガブリエルなどは彼を「ミュージシャンの中のミュージシャン」と称す程である。お陰で彼は食い詰めたことが無い。ソロを志向しようとしていた頃でさえ彼の能力は引く手数多であり、1970年代には既にジャスやフュージョン界でそれなりの評価を得ていた。スタンリー・クラークの公演に呼ばれたり、ジョン・マクラフリンやビリー・コブハムのバンドでギターやキーボードを演奏するなど、仕事は引っ切り無しにあった。1980年代初頭は、再びビリー・コブハムと組んでジャック・ブルース&フレンズの一員に加わったり、テレビ番組"The Old Grey Whistle Test"や"Rockpalast"のバンドに参加するなどの活動をしていた。1984年には、復帰するアレックス・リガートウッドと共にサンタナにも加入した。1977年には、ナラダ・マイケル・ウォルデンのデビュー・アルバム制作にゲスト参加。これは、プロデューサーとソングライターが共同作業を執る最初の例の一つに挙げられる。1980年代、ウォルデンは録音セッションを、デイヴィッドにランディ・ジャクソンとコッラード・ルスティーチも含めたチームで数多く行なった。このチームによる録音セッションを受けたミュージシャンには、アレサ・フランクリン、パティ・オースティン、Eストリート・バンド出身のクラレンス・クレモンスらがいて、制作は全てウォルデンが担当している。更に、ルスティーチ(イタリアのプログレ・ジャズ・バンド「ノヴァ」のメンバーだった)がイタリア人ミュージシャンをプロデュースするに辺り、ウォルデンやジャクソンと共に加わった。このセッション参加は、ズッケロ・フォルナチャーリの複数のアルバムにおいて有名である。一方、1988年までデイヴィッドはピーター・ガブリエルのツアーメンバーに加わり、アムネスティ・インターナショナルのヒューマン・ライツ・ナウ!ツアーにも出演した。それが縁で再びスプリングスティーンとEストリート・バンドを小規模な再結成をすることとなり、以後スプリングスティーンのアルバム制作に何枚か加わっている。また、ツアーメンバーとしてはスティングやユッスー・ンドゥールの公演にも参加、特にスティングは2枚のアルバム制作にも加わった。他にも、リヴィング・カラー、シール、ブライアン・フェリー、ジュリア・フォーダム、ロビー・デュプリー、ナタリー・マーチャント、エリック・クラプトン、イエスのジョン・アンダーソン、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、元マグマのヴァイオリニストディディエ・ロックウッドといった多くのミュージシャンをサポートした実績を持っている。2000年代に入ってから、久々のソロ・アルバムを2作リリースしている。

出典:wikipedia

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