デイヴィッド・アーサー・キングマン(David Arthur Kingman, 1948年12月21日 - )はMLBの元選手。ポジションは外野手。アメリカ合衆国オレゴン州ペンドルトン出身。ニックネームは「Kong」,「Sky King」。南カリフォルニア大学入学当初は投手だったが、後に外野手にコンバートされる。には全米代表に選ばれ、同年チームをカレッジ・ワールドシリーズに導く。同年の2次ドラフトでサンフランシスコ・ジャイアンツから1巡目に指名を受け入団。7月30日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャーデビュー。翌日の同カードでメジャー初本塁打となる満塁本塁打を放つなど5打点を記録。翌日のダブルヘッダー第2戦でも2本塁打を放ち、最高のスタートを切る。打率.278・6本塁打を記録し、チームは地区優勝を果たす。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは打率.111と振るわず、チームも1勝3敗で敗退。結果的にこれが自身最初で最後のポストシーズンとなった。に29本塁打・83打点を記録するが、打率は.225だった。2月28日に金銭トレードでニューヨーク・メッツに移籍。1年目は36本塁打・88打点、はオールスターゲームに初めて選出され、先発出場を果たした。シーズンでも37本塁打・86打点を記録。6月15日にボビー・バレンタインらとの交換トレードでサンディエゴ・パドレスに移籍。移籍後は11本塁打を放つなどまずまずの成績だったが、9月6日にウェーバー公示され、カリフォルニア・エンゼルスが獲得。しかし9月15日にトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍する。チームは地区優勝を果たしたが、ポストシーズンの出場資格がなかったためロースター入りはできなかった。オフにフリーエージェントとなり、11月30日にシカゴ・カブスと契約。は28本塁打・79打点だったが、打率は.266を記録。は開幕から好調で、前半戦終了時に打率.290・29本塁打・69打点を記録し、3年ぶりにオールスターゲームに選出されるが出場機会はなかった。シーズン通算で打率.288・48本塁打・115打点・97得点・長打率.613を記録し、最多本塁打のタイトルを獲得。はオールスターゲームに2年連続で選出されるが、故障がちで81試合の出場に留まった。2月28日にトレードでメッツに復帰。に37本塁打を記録し、2度目の最多本塁打のタイトルを獲得するが、自己ワーストの156三振・打率.204。これは本塁打王を獲得した選手としてだけでなく、規定打席に到達した一塁手のシーズン打率としては史上最低の数字だった。は打率.198・13本塁打に終わり、解雇された。シーズン開幕直前の3月29日にオークランド・アスレティックスと契約。打率.268・35本塁打・118打点を記録し、カムバック賞を受賞する。も30本塁打・91打点を記録。この2年で二つの“幻の本塁打”を放っている。1984年5月4日にメトロドームで行われたミネソタ・ツインズ戦で、打球が天井にはまってしまい二塁打扱いとなった。1985年は4月11日にキングドームで行われたシアトル・マリナーズ戦で、左翼に打った打球が天井から釣り下がっていたスピーカーを直撃し、落下してきたボールは捕球され、アウトとなった。は打率.210ながら35本塁打・94打点を記録。オフにフリーエージェントとなった。現役続行の予定だったが、当時は各球団のオーナーが共謀して高額フリーエージェント選手との契約を避けており(後に違法行為とされた)、どの球団とも契約できなかったボブ・ホーナーが翌シーズン途中にNPBのヤクルトスワローズと契約したり、1986年のナショナル・リーグ首位打者ティム・レインズも旧所属球団モントリオール・エクスポズとの交渉解禁を待って復帰したりという「冬の時代」であった。7月11日に古巣ジャイアンツとマイナー契約を結ぶがメジャー復帰は果たせず、引退となった。198㎝の長身と長い腕を生かしたスイングで打球を遠くまで運ぶ才能に優れていた。通算で442本塁打を記録し、推定168mの本塁打や1試合3本塁打を5回記録するなど典型的なパワーヒッターだったが、反面三振が非常に多く打率は低かった。また強打者である割に四球は少なく、出塁率も低かった。現役を通じて7つのチームでプレーし、性格の面では気難しい部分があったようだ。メッツ時代のチームメイトは彼を公共の場で“切り株の様な性格”と称し、本人もスポットライトを拒み孤独を好む性格の持ち主であった。彼の予期せぬ言動や反社会的行動、そして試合中の独断的プレーは頻繁にトレード対象となる理由の一つであった。
出典:wikipedia
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