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総理大臣官邸

総理大臣官邸(そうりだいじんかんてい)は、内閣総理大臣の執務の拠点。一般に総理官邸(そうりかんてい)、首相官邸(しゅしょうかんてい)、あるいは単に官邸(かんてい)ともいわれる。所在地は東京都千代田区永田町二丁目3番1号。隣接して内閣総理大臣が居住する総理大臣公邸がある。官邸と公邸は屏でつながっている。なお「官邸」は、総理大臣および内閣官房スタッフによる、内閣運営の核となるチームを指す俗語としても用いられるが、本項では本義である建物について記述する。内閣総理大臣の公的事務所であり、また日本の行政府である内閣の閣議が開催される場所である。日本において「官邸」という名がつく施設はこの「総理大臣官邸」だけである。官邸の名称については複数あるため、公文書にも表記ゆれがみられる。外国の官邸と比較すると「ホワイトハウス」「エリゼ宮」「クレムリン」「ダウニング街10番地」「マラカニアン宮殿」のような雅名や愛称がない。多くの国の官邸には法令で定められた正式名称の他に、より親しみやすい雅名や愛称などの通称がある場合が多い。そうした国では通称の方が広く一般に使用されている場合が多く、そもそも正式名称は明文規定されていない、若しくは不明という国まである。また通称が正式名称に昇格した例も少なくない。逆に特にこれといった通称もなく、「総理官邸」などの正式名が一般に使用されているのはむしろ少数派となっている。しかし、小泉政権の頃から従来の “Prime Minister’s Office” という直訳語に替えて、「官邸」という固有名詞をそのまま横文字にした “Kantei” を積極的に日本国外に向けて発信し始めるようになった。現在この “Kantei” はホワイトハウスの公式サイトでも頻繁に使われるまでに汎用される語となりつつある。なおウェブサイトの英語表記は「Prime Minister of Japan and His Cabinet」となっている。現在の官邸の敷地は、17世紀後半、敷地内南側が越後村上藩内藤家中屋敷であり、敷地内北側は旗本屋敷から信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷へと移り変わった。明治維新後、一時、一橋徳川家が使用し、明治3年に鍋島家の所有となった。鍋島邸は関東大震災により大きな被害を受け、復興局へ売却された。1926年(大正15年)、震災復興に伴う中央諸官衙計画の一環として、旧鍋島邸跡地(旧麹町区永田町二丁目一番地)に総理大臣官邸を新設することとなった。旧官邸は1929年(昭和4年)に完成。当時は「内閣総理大臣官舎」と呼ばれており、門には表札がかかっていた。元は太政大臣官舎。内閣制度創設期から旧官邸が完成した1929年まで使用された。西洋風の木造2階建て。大正末期から昭和初期にかけて流行したアールデコ、表現主義などの建築様式を取り入れた文化的にも価値があるといわれる建築。旧帝国ホテル本館などの設計で知られるフランク・ロイド・ライトのデザインに似ていたため、ライト風とも呼ばれたが、実際に設計したのは、当時大蔵省営繕管財局工務部工務課第二製図係長だった下元連である。現在、旧官邸の建物は敷地内を曳家工事により移動し改修を施された上で総理大臣公邸として利用されている。総理執務室前では記者の張り番取材が行われていた(現在の官邸では警備の関係上、取材スペースと執務関係エリアは分離されている)。また、副総理用の執務室も存在したが、「天井が低く、圧迫感がある」ということで余り使われず、歴代の副総理のほとんどは総理府に執務室を置いていた。重大事件が起きると官邸内にある小食堂が“危機管理センター”に使われた。現在の官邸には専門の「危機管理室」が設置されている。1階の西階段は組閣時に閣僚が記念撮影をする場所として広く知られた。1993年、約40年ぶりの政権交代で官邸の主となった細川護熙は、自民党政権の牙城だったこの総理官邸にさまざまな新風を持ち込んだ。組閣後の閣僚記念撮影では恒例の1階西階段の赤絨毯には見向きもせず、中庭の芝生の上で新閣僚がワイングラスを片手に懇談後、閣僚を生け垣の前に並ばせて記念撮影を行った。総理執務室では壁が殺風景だとして、壁紙を隅から隅まで貼りかえさせてもいる。総理や官房長官の記者会見を、演台の後方に立ったままで行う欧米式に切り替えたのも細川だった。東條英機在任中は、ラジオ演説を行うための部屋があった。太平洋戦争開戦時の演説もここで行われたと言われている。太平洋戦争中には総理らが官邸を脱出するための地下トンネルがあった。60年安保で官邸がデモ隊に包囲されたとき、岸信介はこのトンネルから脱出したと、戸川猪佐武の『小説吉田学校』には書かれている。一部には掘り替えまでして残されていたという説もあったが、実際には高度成長期の地下鉄工事や周辺の再開発で取り壊されていたという。他の役所と違って室名表示がなかったことや、官邸内が迷路のような構造になっていた為、歴代の内閣総理大臣が官邸で迷うことがしばしあった。現在の官邸は2002年(平成14年)4月22日から使用されている。(建設は1999年、2000年、2001年、2002年の期間行われ、2002年に旧官邸より官邸機能を移行した。)地上5階、地下1階の鉄骨鉄筋コンクリート構造。最上階になる5階には内閣総理大臣、副総理(必要時に任命)、内閣官房長官、内閣官房副長官の執務室、4階には閣議室、内閣執務室が置かれ、この2層に執務機能が集中している。3階は事務室と玄関ホール、2階にはレセプションルーム(大小のホール)と貴賓室が設けられている。1階は記者会見室や記者クラブなど広報関係の施設がある。地階は総理官邸危機管理センターとなっている。また、屋上にはヘリポートが設置されているほか、官邸前の前庭はヘリポートになるように設計されている。よくニュース映像に出て来るのは、東(正面玄関口)側から見た様子。傾斜地に作られているため、西側の入口は1階だが、東側にある正面の出入り口は3階となっている。組閣後の閣僚記念撮影が行われる階段は3階から2階に降りる階段である。同敷地内に官房長官公邸、宿舎などもある。建設工事の際、山王パークタワーやキャピトル東急ホテルといった高層ビルが新官邸に隣接していることが問題となり、官邸からは、高層ビルに面した側から窓を取り除くなどの設計変更のうえ、高層ビルに対しては官邸に面した窓が開かないよう改修を要請した。さらにテロ対策として、敷地は高さ5メートル以上のコンクリート製防護壁で囲まれている。周辺の道路は警視庁の警察官によって封鎖され、歩行者は基本的に通行できるものの、一般車両の通行は規制されている。総理大臣官邸の警備は、敷地内は警視庁総理大臣官邸警備隊が担当し、敷地周辺は警視庁機動隊の9つの大隊が持ち回りで担当している(第10大隊は重機や特殊車両装備が主の「特科車両隊」なので担当出来ない)。官邸内に飾られる絵画や彫刻は、官邸事務所の所蔵品だけでなく、文化庁経由で無償で借り受けた日本美術展覧会(日展)入選作などが含まれている。官邸内には食堂があり、食事をすることが可能である。官邸敷地内には庭園があり、庭池もある。立川広域防災基地内の立川防災合同庁舎(東京都立川市)には、内閣府の災害対策本部予備施設が設置されている。大規模災害(最も可能性が高いのが東京湾北部を震源とする南関東直下地震)などにより、総理官邸危機管理センター(官邸地下)、内閣府災害対策本部長室(中央合同庁舎第5号館内)、防衛省中央指揮所(防衛省市ヶ谷庁舎地下)のいずれもが被災して災害対策本部としての機能が失われた際には、都心から西に約30km離れた災害対策本部予備施設が対策の臨時拠点となるため、官邸の機能も一時的に避難する可能性がある。

出典:wikipedia

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