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ミスタートウジン

ミスタートウジンは日本の競走馬。主に中央競馬のダート戦線で出走し、オープン特別競走で5勝を挙げる。中央競馬の最高齢出走記録となる15歳まで現役を続け、通算100戦を目前にしながら故障のため引退。通算成績は99戦11勝。競走馬引退後は種牡馬となった。半兄にミスターシクレノン(鳴尾記念、ダイヤモンドステークス勝ち)がいる。"※戦績部分の馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で表示する。"1986年、北海道門別町の白井牧場に生まれる。父ジュニアスはイギリスのミドルパークステークスの優勝馬。母ナオユキは中央競馬のクイーンカップ、牝馬東京タイムズ杯でそれぞれ2着の実績を持つ。幼駒の頃より筋肉が発達した大柄な馬で、白井牧場々長の市川康範によれば「サラブレッドとも道産子とも違うし、ばん馬の子が一頭交じってるみたいだった」という。初出走となったのは1988年10月9日の新馬戦(7着)で、2戦目に初勝利を挙げた。4歳時は1勝を挙げたあとクラシック競走の皐月賞に出走するも13着に敗れ、その後はしばらく条件馬として過ごした。5歳になり、初戦のダート競走・稲荷特別を勝利し、一戦をはさみ同じくダート競走のストークステークスにも勝利。この時点でダート戦は4戦4勝となり、このあたりからダート路線を主軸に活躍し始める。6歳になりオープンクラスに昇格し、1991年には武蔵野ステークス(当時はオープン特別競走)を勝っている。翌1992年からしばらくは、秋冬に多く組まれるダート競走に万全を期すため、春夏は完全休養することが習慣となった。この頃、特にダート競走では常に5着以内に入り賞金を得、8歳となった1993年の初頭にはガーネットステークスと平安ステークス(いずれも当時オープン特別競走)を連勝。特に1400メートルから1800メートルの距離に強さを見せた。市川康範は、「百メートルランナーみたいな格好の筋肉は、素直に力のいる短距離のダートで生かされた」と述べている。9歳(1994年)になると5着以内を確保できないことが増え、同年に出走した帝王賞では、これを最後としての引退も視野に入れられていたが、2着に入ったことから「まだやれる」と現役続行となった。しかし以後の成績は振るわず、11歳となった頃には厩舎に「可哀想だ、動物虐待だ」といった非難の電話も寄せられていた。一方で、毎年の放牧先であった白井牧場には、10歳を過ぎた頃から見学の問い合わせが増え、「トウジン様」宛の贈り物が届くようにもなっていた。高齢まで現役を続けた理由について、調教師の福島信晴と馬主の藤立啓一は、それぞれ次のように述べている。1996年夏から1998年2月までは、脚部不安のため長期休養する。復帰後初戦の銀嶺ステークスでは8着だったが、同期のサクラホクトオーの仔サクラスピードオーに先着している。4歳時の皐月賞ではサクラホクトオーにも先着しており、親子二代に先着を果たすという記録を残した。3戦目の交流重賞・黒船賞では最後方から追い込んで4着に入った。この競走前には京都競馬場の誘導馬への転身も考えられていたが、13歳という年齢から「物覚えが悪くなるので」と競走後に不採用が通知された。次走・オアシスステークス7着の後に右前球節骨折を発症し休養。翌1999年1月に復帰したが、4戦を消化したあと同じ箇所に再び剥離骨折を生じ、再度休養した。15歳になり、中央競馬の同一競走最多出走記録である8度目の出走となった銀嶺ステークスで通算99戦を消化。陣営は100戦目にGI・フェブラリーステークスを走り引退するという青写真を描いていたが除外され、次に黒船賞を選択するが補欠馬に回され出走できなかった。そのあとも100戦目を迎えるべく調教されていたが、右前浅屈腱不全断裂の怪我を負い、100戦目を迎えることなく引退した。15歳での出走は、中央競馬では1956年に出走したアリサトの13歳を更新する最高齢記録、重賞未勝利ながら獲得賞金額は4億円超にのぼった。重賞勝ちもない成績であったが、馬主の藤立がミスタートウジンの子を強く望んだことや、福島がその子の受け入れを請け合ったこと、またマスメディアや競馬ファンから注目されたことで、引退後は種牡馬入りが叶った。初年度には2頭の産駒を出しており、うち1頭が勝ちあがったことも話題となった。種牡馬生活を送った3年間で3頭の牝馬から都合6頭の産駒が生まれたが、競走馬として大成した馬は出なかった。2002年10月1日、種牡馬を引退。その後は白井牧場に繋養されていたが、2007年5月に隣接する日高ケンタッキーファームに移った。2009年には同ファームの閉鎖に伴い日高町富川の乗馬クラブに移動し、エモシオンとともに繋養されていたが、同年の誕生日前にはもといた白井牧場へ移動となり、当て馬をしながら余生を過ごしていた。2013年12月17日、老衰により死亡。競走馬時代のミスタートウジンは田中康三厩舎から福島信晴厩舎に移籍しているが、これは厩務員の西谷憲が移籍した際に、馬主の藤立啓一が「トウジンは西谷さんにしか任せられない」としていっしょに移籍させたことによる。母ナオユキは1972年の優駿牝馬(オークス)の単勝2番人気馬。この年のオークスは、前冬の馬インフルエンザ流行のあおりをうけて異例の7月2日の開催となったため、「七夕オークス」ともいわれる。

出典:wikipedia

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