李 惠踐(イ・ヘチョン、1979年3月12日 - )は、大韓民国の釜山広域市出身のプロ野球選手(投手)。左投げ左打ち。オーストラリアのアデレード・バイト所属。1998年の2次ドラフト2位で韓国・OBベアーズ(現:斗山ベアーズ)に入団。2年目よりチームの中継ぎの柱として活躍。2006年には2006WBC韓国代表の予備エントリーメンバーに登録された。同年ドーハアジア大会の韓国代表に選ばれたが、銅メダルとなり兵役免除の恩恵は受けられなかった。2007年シーズンは兵役に行くことが予定され、選手登録から外され公式戦には1試合にも登板しなかったが、持病の腰痛により結局軍には入隊しなかった。10月に日本でのフェニックスリーグで好投し、韓国シリーズではリリーフで登板した。2008年オフにFA権を行使し、日本プロ野球へ移籍を図る。11月に東京ヤクルトスワローズと2年契約を結んだ。左の先発候補として春季キャンプから高田繁監督から大いに期待されていたが、オープン戦5試合に先発し1勝3敗、防御率6.95と不安定な投球を続けると、開幕直前の3月31日には右ひじ軟骨挫傷により戦線を離脱した。5月4日の広島東洋カープ戦で初登板初先発を果たした。8月2日の中日ドラゴンズ戦では森野将彦に対し右脇腹付近に死球を与えたが、謝罪をしなかったため乱闘騒ぎとなった。左のワンポイントとして、42試合に登板し防御率3.65の成績を残した。被安打や与四球が多い事が課題である。2010年11月15日、球団側から3年目以降の契約オファーされず、ヤクルトをFAとなった。後にヤクルト時代を振り返って、「日本の選手たちの態度は本当にひどい。表向きはよくしてくれるが心を開かない」「1人でたくさん泣いた」と語っている。2010年12月8日、古巣の韓国・斗山への復帰が決まった。背番号は斗山で以前つけていた59ではなく、ヤクルト時代につけていた49となった。2011年は先発としてもリリーフとしても活躍できずたった1勝に終わり、試合前の練習中のケガで8月上旬2軍へ降格すると、シーズン中に1軍へ復帰することはなかった。2012年より背番号を59に戻したが、成績は向上せずまたも1勝止まりだった。2013年も成績不振で、同年11月、余剰戦力の分配を目的とした2次ドラフトでNCダイノスに指名された。2014年、NCでは斗山在籍時と同じく左の中継ぎで起用された。2015年シーズン終了後、韓国での選手生活を終えてオーストラリアン・ベースボールリーグのアデレード・バイトと契約。最高時速152kmを投げ込む本格派左腕。持ち球はスライダー、スクリューなど。先発・中継ぎ・抑えと全ての役割を担う事が出来る事と、さらに数試合の連投も問題にしない驚異的なタフネスが持ち味。しかし、制球に難があり、持ち前の速球を生かしきれず、ボール球の乱発の挙げ句、カウント取りに来る球を痛打され、自滅する傾向がある。チームは左投げから繰り出されるその球速を重宝して何度も先発に定着させようとしたが、その度、制球難のため失敗に終わった。しかし、制球の不安定から来る予測不可能さと球速と合わせて狙いを絞られず、彼を苦手にしている打者もおり、韓国時代の李承燁もその一人だった。その制球難のため、入団から2004年までは中継ぎに留まり、2005年からようやく先発に転向している。ヤクルト時代は中継ぎで、2011年斗山復帰時は最初先発での起用だったが、結果を出せず中継ぎでの登板が中心となった。
出典:wikipedia
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