始末の極意(しまつのごくい)は古典落語の演目の一つ。同題は上方落語での演題であり、東京ではしわい屋(しわいや)の題で演じられることが多い。吝嗇(りんしょく=ケチ)な人物による、度を越した「始末(=節約)」の方法が多く登場する噺である。登場する節約法は、『片棒』、『位牌屋』、『味噌蔵』といった演目のマクラに小咄として差し挟まれることが多い。初代桂春輔は『節約デー』という題で演じ、SPレコードが残されている。かつて寄席においては、どんな階層の観客にも不快をもよおさせない、とされるネタの主題が規定され、それぞれの語尾から「三ボウ」と呼ばれた。この演目のマクラには、よくこの「三ボウ」の紹介が用いられたが、「つんぼ」がいわゆる放送禁止用語となっていて、手話落語が演じられている今日では、差し障りがないとは言いがたく、あまり口演されない。演者はまず、以下のような吝嗇家の登場する小咄をいくつか紹介する。それぞれの小咄は、本題の登場人物の会話に取り入れられる場合もある。あるケチを自認する男は、始末の指南を請うため、たびたび「吝嗇の大家」のもとを訪れている。男がある暑い日に吝嗇家を訪ねると、吝嗇家は汗ひとつかいていない。彼の頭上には、大きな石が細い糸で吊るしてあり、いつ落っこちてくるか、という恐怖感から涼しく感じていられる、と言う。男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。吝嗇家は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。吝嗇家が男に「最近の食事はどうしているのか」と訊くと、男は「おかずは無駄なので、3度3度の飯は、玄米に塩をかけて食べていたが、近頃はその塩が減るのももったいないと、1個の梅干しの皮を朝に食べ、果肉を昼に食べ、種は夜にしゃぶり、味がなくなったら種を割り、中の天神を食べて、1日もたせている」と答えた。それを聞いた吝嗇家は、「梅干し1日1個など大名並みの贅沢」と評する。吝嗇家によれば、そもそも梅干しは食べるものではなく、眺めていると自然に出てくるつばをおかずにして飯を食べるためのものであって、梅干しに飽きたらザクロや夏みかんでつばを出すのだ、という。また、吝嗇家はかつてうなぎ屋の隣に住んでおり、飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていたが、それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使(つこ)てるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んできたという。そのとき吝嗇家は財布を出したものの、金を渡さずにうなぎ屋の目の前で落として音を鳴らし、「『嗅ぎ代』やさかい、音だけでよかろ」。この話を聞いた男は感服する。このほか、吝嗇家によって数々の節約術(鰹節を買わずにだしをとる方法、賽銭を節約する方法など)が語られる。男は「始末の極意」を吝嗇家に問う。吝嗇家は男に対し、あらためて夜に来るよう言う。男が再訪すると、吝嗇家は男に裏庭に出るよう命じる。外に出ようとすると、玄関が暗くて足元がわからない。吝嗇家にマッチを借りようとすると、「そこに掛かってる木づちで目と目の間をどつけ(殴れ)。目から出た火で下駄探せ」。庭に着き、男は言われるまま、ハシゴを松の木の枝にかけて登り、1本の枝に両手でつかまりぶら下がる。すると、吝嗇家は突然はしごをはずす。怖がる男に吝嗇家は、まず左手を枝から放すように命じる。男は次に右手の小指だけを枝から離させられ、その次に薬指も、さらに「たかたか指」も、と順に命じられ、残る人差し指と親指だけで枝をつかんでいる状態になってしまった。さらに指をはずせ、と言う吝嗇家に、男が「人差し指は、よう離しません」と叫ぶと、吝嗇家は男の右手と同じように人差し指と親指で丸を作って示し、「これ、離さんのが極意じゃ」(人差し指と親指で丸を作るサインは、日本では金銭を示すボディーランゲージである)。
出典:wikipedia
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