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大久保氏

大久保氏(おおくぼし)は、日本の氏族。関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂泰藤が三河国に移住したのが始まりで、その子孫が松平氏に仕えたとされるが、真相は不明である。当初は宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂又は大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。『柳営秘鑑』の中では、安祥松平家(松平宗家・徳川家)安祥城居城時代からの最古参の安祥譜代7家の1つに挙げられている。徳川家康の配下として活躍したのは忠茂の孫で、大久保忠員の子である大久保忠世、忠佐の兄弟が主要な合戦で武功を挙げている。忠世の子・大久保忠隣は徳川秀忠付けとなり、やがて老中に抜擢されるほど重用される。しかし1614年(慶長19年)、忠隣は改易処分となる。身柄は井伊直孝に預けられ、近江国栗太郡中村へ配流された。跡目に期待していた長子・忠常を失って以来、失意の底にあった忠隣は赦免される事なく、その地で没している。忠隣の次男以下も処分対象であったが、蟄居処分で済んでいる。1625年(寛永2年)、忠隣の孫・忠職の代になって、ようやく赦免された。当時22歳の忠職は、母方の従兄弟・松平忠隆の死去に伴い、美濃国加納藩の新たな藩主となって大久保家嫡流(大久保加賀守家)を再興させた。実子に次々と早世された忠職の跡を継いだ大久保忠朝の代から再び、相模国小田原藩に封された。相模守忠隣の改易から、実に70年余の歳月が流れている。その後も小田原藩の統治が続き、明治維新を迎える事ができた。1869年(明治2年)の版籍奉還後、小田原藩の10代藩主・大久保忠良は、そのまま藩知事となった。しかし1871年(明治4年)、廃藩置県の施行によって小田原藩は解体。忠良も罷免された。戦国期の忠世・忠佐兄弟には、他にも『天下の御意見番』の異名で呼ばれる忠教(彦左衛門)という著名な弟がいた。兄・忠佐からの跡目相続要請を固辞して、旗本で生涯を終えている。彦左衛門の系統以外に、忠為の系統も存在する。忠為の直系孫・常春は下野国烏山藩を起こした上に、老中に抜擢された。忠為の四男・忠舊は紀州藩士となっていたが、孫娘・深徳院は9代将軍・徳川家重の生母となっている。そのため深徳院の弟たちは幕臣に召し出された。なお、幕末・明治期の政治家大久保一翁(忠寛)は、大久保忠俊の庶子で嫡出の忠勝とは別家の旗本を起こした大久保忠安の末裔である。薩摩国出身の大久保利通の一族がいる。薩摩藩士の大久保家は藤原姓とされるが定かではない。「甲東逸話」では一説、源姓畠山氏の一族で戦国時代に京都から薩摩に移るという。また、寛文年間の「諸家大概」にその系図を偽者扱いされている大窪源太左衛門という人物が源姓畠山氏を称しているが、この人物と当大久保家との関係は不明。貞享年間に市来郷川上に下り、後年に鹿児島城下に戻るという。彼の一族については大久保利通を参照。また新撰組の近藤勇は晩年「大久保大和」と名乗っている。

出典:wikipedia

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