ロバート・マイケル・ゲーツ(, Ph.D.、1943年9月25日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。国防長官(第22代)。中央情報局(CIA)長官、テキサスA&M大学学長を歴任。現在、ウィリアム・アンド・メアリー大学総長(第24代)。所属政党については、ジョージ・H・W・ブッシュ並びにジョージ・W・ブッシュ政権などでの閣僚・補佐官経験から共和党員と思われがちであるが、これは誤解である。実際は無所属を貫いており、共和党員として登録したことは一度もない。ただし、ゲーツ自身は自らのことを「共和党支持者だと思っている。」とのことである。ビル・ゲイツと同姓だが、日本では慣用的に「ゲイツ」ではなく「ゲーツ」とされることが多い。カンザス州ウィチタ生まれ。1961年に公立のをオールAの成績で卒業後、奨学金を受けてウィリアム・アンド・メアリー大学(W&M)に入学する。W&M在学中は歴史学(ヨーロッパ史)を専攻すると共に、全米やフィリピンに組織を持つ学生団体(フラタニティ)である「」に所属するなど、勉学以外にも様々な活動に関わった。1965年にW&M大を卒業後はインディアナ大学に移り、修士課程(歴史学専攻)で学び、翌1966年に修士号を取得する。1974年、ジョージタウン大学から博士号(ロシア・ソビエト史)を取得。インディアナ大学修士課程在学中に中央情報局(CIA)からスカウトを受け、修士課程を修了した1966年に入局する。入局当初はCIA本局ではなく、兵役の関係から情報士官として空軍に入隊することになり、1967年1月4日に少尉として任官、以後1969年に除隊するまで戦略航空軍団(SAC)の拠点の1つであったミズーリ州で、大陸間弾道ミサイル(ICBM)・ミニットマンの運用担当要員に対する情報(インテリジェンス)報告任務に従事した。また、少尉任官後間もない1967年1月7日には、現在に至るまでの伴侶であるベッキー夫人とシアトルで結婚している。除隊後はCIAに戻り、情報本部ソ連東欧部の分析官となる。その後一度CIAを離れ、1974年から1979年まで国家安全保障会議に勤務した後、1979年の後半にCIAに復帰し、情報本部戦略評価センター長、国家情報官(ソ連東欧担当)を経て、1981年から翌1982年まで中央情報長官・副長官室(DCI/DDCI Executive Staff)部長を、1982年から1986年まで情報担当次官(Deputy Director for Intelligence,DDI)にそれぞれ務め、1986年4月には当時のロナルド・レーガン政権の下で、退任するの後任として中央情報副長官に就任した。さらにこの後、1987年初めにはレーガン大統領より国家情報長官に指名されるが、この時は上院がイラン・コントラ疑惑へ関与した疑惑を問題としてこの人事を承認しない姿勢を明確にしたため、指名を撤回されている。1989年1月にレーガン政権からジョージ・H・W・ブッシュ政権へ政権が移行する。ゲーツは政権移行後も引き続いて中央情報副長官職を務めていたが、同年3月に政権移行後空席となっていた国家安全保障問題担当大統領次席補佐官に任命され、これに転じた。また1991年5月14日には、退任する予定の長官の後任として中央情報長官に指名された。レーガン政権時代に指名された際には、前述のように就任を果たせなかったが、2度目の指名となった今回は同年11月5日に上院で無事に承認され、承認翌日の11月6日に就任した。ゲーツのようなCIA生え抜きの人物が中央情報長官(CIA長官)に就任するのはCIA史上初めてのことであり、この後ゲーツは1993年のビル・クリントン政権への政権移行まで長官を務めた。CIA長官退任後は大学教授に転身し、テキサスA&M大学にて1999年から学部長、2002年から学長を務める。2006年、国防長官であったドナルド・ラムズフェルドの辞任に伴い後任に指名された。同年12月29日、上院から承認を受け、国防長官に就任。2007年のイラクに対する米軍増派作戦を主導し、イラクの治安を改善させるのに成功した。2009年に発足したバラク・オバマ政権でも引き続き国防長官として留任した。米国において対立党派などから閣僚を起用するのは珍しいことではないが、政権が交代する際に国防長官が留任したのは、史上初めてのケースである。2011年6月30日、国防長官を退任。国防総省で開かれた退任式典で、バラク・オバマ大統領から、大統領自由勲章を、サプライズで授与された。2011年9月、ウィリアム・アンド・メアリー大学総長サンドラ・デイ・オコナーの後任に選出され、2012年2月3日に就任した。
出典:wikipedia
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