フィアット G.55 チェンタウロ(Fiat G.55 Centauro、ケンタウルスの意)は第二次世界大戦中にイタリアが開発・製造した戦闘機。G.55はドイツ製ダイムラー・ベンツ DB 605液冷エンジン(1,475hp)を搭載した高性能、及び生産性を兼ね備えた戦闘機としてフィアット社で開発が進められた。原型機は1942年4月30日に初飛行し、それまでの戦闘機より格段に高速で運動性も良く、パイロットたちから高い評価を得た。ただし生産に当たってはDB605がドイツ国内向けの生産に追われて入手困難だったため、同エンジンをライセンス生産したフィアットRA1050RC58 ティフォーネ(Tifone、台風の意)を搭載する事になった。但しこのエンジンの生産が軌道に乗るまで時間がかかり、結局本機の実戦投入は終戦の3ヶ月前である1943年6月までずれ込んだ。G.55は同じDB605系エンジンを搭載したMC.205ベルトロやRe.2005サジタリオ(MC.205、Re.2005、G.55を総称して「serie5」と呼ぶ)に比べて武装の面で優れていた。量産型のMG151/20(20mm機関砲)×3、ブレダSAFAT12.7mm機銃×2は、M.C.205(MG151/20×2、ブレダSAFA12.7mm×2)より強力でRe.2005(MG151/20×3、ブレダSAFA12.7mm×2)と同等、装弾数はブレダSAFA12.7mm各300発、MG151/20は軸内250発、翼内各200発であった。イタリアでは戦局の悪化に伴い北アフリカからB-17やB-24といった連合軍の大型爆撃機が頻繁に来襲するようになった。それまでのイタリア戦闘機、例えば大戦期に於けるイタリア主力戦闘機であるMC.202 フォルゴーレのブレダSAFAT7.7mm×2、ブレダSAFAT12.7mm×2という程度の武装では火力的に対応することが難しく、また高高度性能も劣っていた。G.55はその点強力な武装を有し、また実用上昇限度が12,500mと比較的高く、優れた迎撃戦闘機であった。イタリアが降伏する1943年9月8日までにイタリア王立空軍に引き渡されたG.55はそれほど多くはなかった。降伏後も生産は継続され、完成機はイタリア北部に誕生したファシスト系のイタリア社会共和国下の共和国空軍に引き渡された。G.55は最終的に約300機が生産された。G.56はG.55により高出力のDB603液冷エンジンを搭載した試作機。最高速度685km/hを予定していたが、ドイツがこの貴重なエンジンの供出を拒んだため試作2機のみの製造に終わった。フィアット社は大戦終結後、G.55をベースにした練習機を開発した。最初のモデルはG.55Aと名づけられた。これは単座の高等練習機で、1946年9月5日に初飛行した。G.55Aはイタリア軍事空軍(新生イタリア空軍)向けに19機、アルゼンチン空軍向けに30機が生産された。アルゼンチン向け30機のうち19機は後にエジプトに渡った。次に開発されたモデルはG.55Bと名づけられ、こちらは複座練習機であった。10機がイタリア向けに、15機がアルゼンチン向けに生産された。
出典:wikipedia
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